【『名作』一覧】童話や文学、戯曲など【海外と日本の有名作品集】
名作:『永訣の朝』をご紹介させていただきました。
現代語訳風かつ全文ふりがな付きにしています。
一つの参考にして下さいませ。
- 現代語訳風の内容紹介
- 作者紹介
- 解説と考察と解釈:「伝えたかったこととは?」
- 参考文献
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『永訣の朝』の内容【現代語訳風】
まずは内容と作者紹介です。
永遠の別れ
きょうのうちに
とおくへいってしまうわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ*)
うすあかくいっそう陰惨*な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜*のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀*に
おまえがたべるあめゆきをとろうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのように
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛*いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしの健気*ないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあいだから
おまえはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれの御影石材*に
みぞれはさびしくたまっている
わたくしはそのうえにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとおるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていこう
わたしたちがいっしょにそだってきたあいだ
みなれたちゃわんのこの藍のもようにも
もうきょうおまえはわかれてしまう
(Ora Orade Shitori egumo*)
ほんとうにきょうおまえはわかれてしまう
あああのとざされた病室の
くらいびょうぶやかやのなかに
やさしくあおじろく燃えている
わたくしの健気ないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたて
こんどはこたにわりゃのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる*)
おまえがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまえとみんなとに聖い*資糧*をもたらすように
わたくしのすべてのさいわいをかけてねがう
(おわり)
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[用語の説明]
*あめゆじゅとてちてけんじゃ:「雨雪を取ってきてちょうだい」という意味。なお、この詩の中では、妹のとし子の言葉として伝えられている
*陰惨:暗く、むごたらしいこと
*蓴菜:池や沼などに生える草のことで、主に楕円形の葉をしている
*陶椀:陶製の器のこと
*蒼鉛:赤みがかった銀白色の金属のこと
*健気:勇ましく気丈であるさま
*御影石材:岩石の一種
*Ora Orade Shitori egumo:「私は私でひとりでいきます」という意味
*うまれでくるたてこんどはこたにわりゃのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる:「また人に生まれるときには、こんなに自分のことばかりで苦しまないよう(人のためになるように)生まれてきます」という意味
*聖い:けがれのないさま
*資糧:心身を養ううえでの源となるもの
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作者:宮沢賢治
作者:宮沢賢治(1896~1933年)
現在の岩手県花巻市出身の童話作家であり詩人。
教員を経た後、農民の生活向上に尽力しながら、童話や詩を書き続けました。
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岩手県の花巻町(現在の花巻市)に生まれた後、14歳で盛岡中学校に入学。
その頃には短歌を創作し始めています。
(前略)また登山や植物・鉱物の採集に熱中した。
(『学習人物事典』452ページ より)
中学を卒業後は盛岡高等農林学校に入学。
在学しながら童話を書き始めました。
その後、盛岡高等農林学校を卒業後は、同校の研究生として残り、郷土の土性調査を行います。
童話の創作は後述した『国柱会』に入会後も続けていました。
そのかたわら詩を書き、たくさんの童話を書いた。
今日のこされている賢治の童話の大部分は、このころに書かれたり、構想がねられたものが多い。
(『学習人物事典』453ページ より)
作品
その他の代表作の一部
生前に刊行されたのは2作品のみだった
宮沢 賢治は数多くの作品を世に送り出していますが、彼の生前に刊行された作品は2作品のみでした。
三十七歳で亡くなるまでに、「グスコーブドリの伝記」、「セロひきのゴーシュ」など、数多くの作品を残した。
しかし生前に刊行されたのは、詩集『春と修羅』と、「イーハトヴ童話」の副題がついた童話集『注文の多い料理店』という、二作品のみだった。
なお「イーハトヴ」とは賢治の造語で、岩手県のこと。
有名な詩「雨ニモマケズ」は、賢治の死後、手帳から発見された。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』38ページ 宮沢賢治 より)
生前はほとんど無名だったが、死後、『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『グスコーブドリの伝記』など、イーハトーヴ(国際共通語として提唱されたエスペラント語的な岩手の表記)童話と呼ばれる一連の作品が高く評価されるようになった。
(『倫理用語集』175ページ 宮沢賢治 より)
人物
推敲の徹底
また宮沢 賢治は自身の作品を徹底して推敲*することでも知られていました。
*推敲:自分で書いた文章を読み返し、練り直すこと
徹底的に推敲を重ねることでも知られ、代表作の一つである「銀河鉄道の夜」には、一次稿から四次稿までが存在する。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』38ページ 宮沢賢治 より)
宮沢賢治の代表的な童話作品。
繰り返し書き直され、生前は未発表に終わった。
(『倫理用語集』176ページ 『銀河鉄道の夜』 より)
仏教の信仰
さらに仏教を深く信仰していたことでも有名です。
両親とも熱心な仏教の信者で、賢治もおさないとき、両親のとなえるお経をそらでおぼえたりした。(中略)
上級に進んでからは仏教の本、とくに法華経*を読むようになった。
(『学習人物事典』452ページ より)
*法華経:正式名称は『妙法蓮華経』といわれる仏教の重要な経典の一つであり、シャカが亡くなる前の8年の間に説いていた教えをまとめたものだともいわれている
なお、盛岡高等農林学校卒業後は、日蓮宗を深く信仰するようになったといいます。
このころから賢治は日蓮宗を深く信仰するようになり、宗教に身をささげようとして1921(大正10)年に上京、「国柱会」という日蓮宗の会に入って活動した。
(『学習人物事典』453ページ より)
菜食主義者
(前略)また菜食主義者*となった。
(『学習人物事典』452、453ページ より)
*菜食主義者:いわゆる『ベジタリアン』のことで、動物性食品(肉や魚や卵など)を避けた食生活を送る人のこと
農民文化への関心
1924(大正13)年、詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を自費出版した賢治は、2年後の1926(大正15)年に農学校をやめ、農民のため肥料設計の相談や、新しい農民文化をつくりだすために全力をかたむけた。
「羅須地人協会」をつくって、農村青年のための農業化学や芸術の講義をしたりした。
(『学習人物事典』453ページ より)
農民芸術の提唱
その後、教職を辞して自ら農耕に従事し、農業と宗教・芸術の融合をめざす農民芸術を提唱(後略)
(『倫理用語集』175ページ 宮沢賢治 より)
作風
五感を刺激する世界観
児童文学の研究者:冨田 博之さんは、宮沢 賢治の作品の世界観を次のように表現なされています。
賢治の世界は、五感を刺激するんです。
音、光、色彩、匂い、そういうものにあふれている。
(『童話学がわかる』136ページ より)
オノマトペ
劇作家の如月小春さんは、宮沢 賢治の童話の魅力の一つに、『オノマトペ*』の存在を挙げられています。
(前略)賢治の童話の魅力に、オノマトペがある。
(『童話学がわかる』138ページ より)
*オノマトペ:『ワクワク』など、状態や動作などを言葉で表現したもの
『月夜のでんしんばしら』では、でんしんばしらの軍隊が月夜に行進する様子が、
「ドッテテ ドッテテ ドッテテド」
というオノマトペで表現されている。
また『貝の火』では、つりがねそうがならす朝の鐘の音が、
「カンカンカンカエコカンコカンコカン」
と表現されている。
『風の又三郎』では、この物語のいわば本当の主役である風の音が、歌詞としてこう表わされている。
「どっどど どどうど どどうどどどう」
(『童話学がわかる』138ページ より)
【『風の又三郎』で伝えたかったことを考察】あらすじ内容を簡単に要約【「どっどど」の意味の解説も】
如月さんはこのような宮沢 賢治のオノマトペについて、次のようにまとめています。
童話として子どもたちがこれら、賢治のオノマトペに触れた時、敏感に反応を返してくるのはむろんのことである。
それはいわば、子どもたちにとっては物語世界の入り口として誘い込まれずにはおられない魅力をたたえているのだ。
(『童話学がわかる』139ページ より)
科学からの視点
賢治は詩人・童話作家であるとともに、科学者でもあった。
のこされた400あまりの詩、100あまりの童話には、自然を冷静に見つめる科学者の目と、ゆたかな想像力がとけあって、ふしぎな明るさにみちている。
(『学習人物事典』453ページ より)
独特な世界
自然と交感する感受性と、『法華経』の思想を軸とした、独特な作品の世界をつくりあげた。
(『倫理用語集』175ページ 宮沢賢治 より)
名言
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉は、宮沢 賢治が理想としていた幸福論を表す言葉です。
宮沢賢治が、羅須地人協会の理念として1926(昭和元)年に記した『農民芸術概論綱要』の中の言葉。
(『倫理用語集』175ページ 宮沢賢治 より)
この言葉は、個人の幸福が世界の幸福に包含されていることを意味しています。
宮沢賢治は、個人と社会を対立的なものとしてとらえる考え方を否定し、個人だけの幸福というものはありえず、世界の幸福が同時にその中の個々の幸福でもあるような世界を夢みた。
その実践が、農業が単なる生活のための手段となっている現状を批判し、労働と宗教・芸術の一体化をめざした農民芸術であった。
(『倫理用語集』175ページ 宮沢賢治 より)
評価
劇化される童話の豊富さ
さきほどもご紹介させていただいた劇作家の如月小春さんは、自身の経験から、宮沢 賢治の童話の、劇化作品の豊富さを次のように話して下さっています。
童話を原作として劇化される作品は無数にあるが、原作者を日本人に限定すると、これはもう圧倒的に、宮沢賢治が多い。
といっても別にきちんと統計をとって調べたわけではないのだが、児童劇の現場に関わっている者の一人として、これは実感以外の何ものでもない。
児童劇ばかりでなく、大人を対象とした劇にも、また映画やテレビドラマなどにも、賢治の童話を下敷きにしたもの、あるいはそれをモチーフにして自由に展開させたものなど、私自身が見たことのあるものだけでも相当の数にのぼるはずだ。
(『童話学がわかる』136ページ より)
如月さんはこの理由を、宮沢 賢治の童話が周知されていること、手に入りやすいといった事情に加え、童話自体に特色があるからだと考察。
それはさきほどの”五感を刺激する世界観”にも通ずることでした。
【『永訣の朝』の解説】「伝えたかったことは何だったのか?」【わかりやすく簡単に】
では、「本作:『永訣の朝』で、作者の宮沢賢治が伝えたかったことは何だったのでしょう?」
参考文献を元に、2つのことを考察しました。
ーーーーー
注:ここからの情報は自分独自の考察に過ぎません。
間違っていないとは言い切れませんので、あくまで一つの参考にして下さいませ。
ーーーーー
前提:亡き妹のトシへの悼みが表されている
まず前提として、本作は作者である宮沢 賢治の妹:トシ(=とし子)への気持ちが表された詩になります。
『永訣の朝』『無声慟哭』などの詩に、妹の死をいたむ賢治の気持ちがあらわされている。
(『学習人物事典』453ページ より)
本作はトシが亡くなった朝によまれました。
しかし最愛の妹トシが病気になったため、賢治はその年の9月に帰郷し、稗貫(花巻)農学校の教師となって妹を看病した。
トシは翌年なくなり、賢治はショックを受けた。
(『学習人物事典』453ページ より)
<1>愛
そして以上のことを前提にすると、本作で伝えたかったことの一つは、『愛』であったと自分は考察しました。
これは本作の作者である宮沢 賢治の妹へ向けた兄弟愛や感謝の気持ちのことになります。
このことは、本作における、
ありがとうわたくしの健気ないもうとよ
などの言葉からも垣間見えます。
<2>救済
そして二つ目に自分が考察したことが、『救済』です。
本作では最後、
わたくしのすべてのさいわいをかけてねがう
とあったように、妹:トシの死後の幸せ(≒救い)を願う作者:宮沢 賢治の気持ちが垣間見えました。
なお、『救済』という言葉は仏教用語としても知られています。
繰り返す通り、本作の作者:宮沢 賢治は仏教を深く信仰していたことでも有名でした。
両親とも熱心な仏教の信者で、賢治もおさないとき、両親のとなえるお経をそらでおぼえたりした。(中略)
上級に進んでからは仏教の本、とくに法華経*を読むようになった。
(『学習人物事典』452ページ より)
*法華経:正式名称は『妙法蓮華経』といわれる仏教の重要な経典の一つであり、シャカが亡くなる前の8年の間に説いていた教えをまとめたものだともいわれている
もちろんだからといって、作者がこの『救済』を本作で伝えたかったと言い切れる理由にはなりません。あくまで自分の考察です。
またこの『救済』に近い作者の思いは、何もトシだけに向けられたわけではありません。
おまえとみんなとに聖い資糧をもたらすように
“みんな”という言葉にあるように、命あるすべての者に向けられていたように、自分は考えました。
そしてもっと言えば、それは作者自身へも向けられていました。次の通りです。
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまえはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしの健気*ないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
以上のことは、トシが宮沢 賢治の心を救うため、「雨雪を取ってほしい」ことを伝えたことがわかります。
よって本作で作者が伝えたかったことは、妹:トシへの『愛』であり、命ある者への『救済』だったと自分は考察しました。
『永訣の朝』の解説の補足
最後は補足です。
「Ora Orade Shitori egumo」の意味と解釈
本作ではローマ字で、
Ora Orade Shitori egumo
と表記されている部分がありました。
この一文は、繰り返す通り、「私は私でひとりでいきます」を意味しています。
ローマ字であった理由には、一説によると、作者が妹の言葉を意外に感じたからであるといわれています。
【『永訣の朝』を解説】わかりやすく簡単に伝えたかったことを解説【現代語訳風】まとめ
本作:『永訣の朝』では、妹を亡くした作者の心情が描かれていました。