【『名作』一覧】童話や文学、戯曲など【海外と日本の有名作品集】
名作:『芋粥』のご紹介です。
あらすじは全文ふりがな付きで、読み聞かせができるようにまとめています。参考にして下さいませ。
- 全文ふりがな付きのあらすじ要約
- 作者紹介
- 参考文献
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『芋粥』の現代語訳風のあらすじ【簡単かつ短く】
あらすじと作者紹介です。
物語:夢は見るもの?叶えるもの?
平安時代のことです。
京の都に、五位*と呼ばれる侍がいました。
この男、風采*はあがらず、しかも臆病者だったので、周りからは蔑まれ、人を避けるようにして生きてきました。
しかし、そんな五位にも、ひとつだけ夢がありました。
それは、芋粥*を飽きるほど食べるということです。
今と違い、当時は、芋粥といえば、めったに食べられないごちそうだったのです。
あるとき、宮中で大きな宴会が催されました。
そこでは芋粥も出されたのですが、なにぶん人が多く、五位が食べられたのはほんのわずか。
そのため、かえって五位の芋粥への思いは増すばかりでした。
五位は思わずつぶやきます。
「ああ、いつになったら、芋粥を飽きるほど食べられるのだろうか…」
それを聞いていたのが、高い身分にあった、藤原利仁です。
利仁は、五位を見ながらこう言いました。
「お望みなら、この利仁がその望みを叶えるが、いかがかな?」
それを聞いた五位は、周りの目が気になり、一瞬迷いました。
しかし、こんな機会はめったにありません。
「かたじけのうござる…」
結局、五位は利仁の話に乗ることにしたのでした。
それから4、5日後、五位は敦賀*にある利仁の屋敷に招かれました。
いよいよ芋粥を飽きるほど食べるときがきたのです。
ところが、そこで五位は、なんともいえない気持ちに襲われました。
こんなに早く夢が叶ってしまうことが、急に不安になったのです。
長い間、辛抱して待っていたあの日々が、一瞬にして意味のないものになってしまうような気がしてなりません。
いざ食事が始まると、食べきれないほどの芋粥が出てきました。
夢にまで見た芋粥です。
ところが五位は、そこで食欲がまったくなくなってしまいました。
わずかに箸はつけたものの、もうそれ以上食べることはできません。
周りの人たちは、もっと食べるようすすめます。
しかし、五位は、「いや…もう、これで十分でござる…失礼ながら、これで十分でござる…」と断るのが精一杯。
そのとき五位の頭の中に浮かんできたのは、蔑まれながらも、ひとつの夢を持って生きていた、あの幸せな日々のことでした。
(おわり)
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[用語の説明]
*五位:朝廷の序列を示す位階のうち、下級にあたる者のこと
*風采:見た目のこと
*芋粥:山芋を甘味料(甘葛の汁)で煮た食べ物のことで、昔は高級品だった
*敦賀:日本の昔の国名で、現在の福井県にあたる
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作者:芥川龍之介
作者:芥川龍之介(1892~1927年)
本作:『芋粥』は1916年に発表されています。
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生まれは現在の東京都中央区の京橋。新原敏三の長男として生まれました。
辰の年、辰の月、辰の日、辰の時刻に生まれたので、龍之介(本名)と名づけられた。
(『学習人物事典』6ページ より)
しかし、生後まもなく母親が発狂したため、母親の実家である芥川家で育てられ、のち正式に芥川家の養子となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
病弱で神経質な読書好きの少年であった。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
府立三中(現在の東京都立両国高等学校)を経て、1910年(明治43年)に第一高等学校に入学。
学業成績が良かった芥川は、無試験で入学することができました。
その後、1913年(大正2年)には、東京帝国大学(現在の東京大学の前身)英文科に入学。
この2年後には『羅生門』を発表しましたが、反響はありませんでした。
しかし、その作家活動の最中、自身の作品:『鼻』を夏目漱石に認められたことにより、新進作家と見なされるようになります。
大学生のとき、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』といった日本の古典を題材にした短編小説「鼻」を発表。
この作品が夏目漱石に絶賛され、文壇で注目されるようになった。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
大学卒業後は横須賀の海軍機関学校の教師や大阪毎日新聞社を経た後、1918年(大正7年)頃から本格的な作家活動を始めています。
作品:その他の代表作の一部
評価:『芥川賞』の制定
『芥川賞』は、芥川龍之介の功績を記念してつくられた文学賞です。
新人作家に与えられる文学賞である「芥川賞」の由来となった人物である。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
作風:人間のエゴイズムや芸術至上主義などを鋭く描いた
『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』などの初期の作品は、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった古典を材料として、これらの物語に登場する人物の心理にメスを入れ、人間のエゴイズム(自分だけの幸福や利益を追いもとめる考え方や態度)や、芸術至上主義(芸術を自分にとって最上のものと考え、宗教や道徳・政治などの上におく考えや態度)などをするどくえがいたものが多い。
(『学習人物事典』6ページ より)
『今昔物語集』という古典に取材しつつも、人間の本質と近代人の心理を追求するものであった。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
人物:「この世で信じられるものは自分の神経だけ」
龍之介は、この世で信じられるものは自分の神経だけだとくり返し書いているが、そのようなとぎすまされた、するどい感性と知性で『手巾』『蜜柑』『トロッコ』などの作品を書き、やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
特徴:短編小説が多かった
なお、繰り返す通り、芥川龍之介の作品には、短編小説が多いことが特徴でもありました。
(前略)やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
晩年:暗く苦しげな作風への変化
(前略)1919(大正8)年頃から「疲労と倦怠」の中で、不眠・神経衰弱が進行し(後略)
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
(前略)1925(大正14)年ごろから神経衰弱や胃腸病になやみ、また、そのころさかんになってきたプロレタリア文学に、新しい時代の新しい芸術を感じとっていた。
(『学習人物事典』6、7ページ より)
(前略)26(大正15)年には、創作上の苦しみもあって、友人に自殺の決意を語っている。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
そして、それに自分の芸術がついていけないのではないかという不安から、かれの作品はしだいに暗く苦しげなものとなり、『玄鶴山房』『河童』などのけっ作を発表したものの、1927(昭和2)年7月、田端(いまは北区田端)の自宅で睡眠薬自殺をとげた。
(『学習人物事典』7ページ より)
「唯ぼんやりした不安」
「唯ぼんやりした不安」という遺書の言葉は、大きな不安に向かう時代を象徴するものとして、知識人に衝撃を与えた。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
【芥川龍之介:『芋粥』】を現代語訳風にあらすじを簡単かつ短く解説まとめ
夢は誰もが叶えることを望みます。
ですが、当然ながら、叶ってしまえばそれは夢ではなくなります。
夢は遠くから眺めているからこそ夢である。
本作:『芋粥』では、そんな夢について考えさせられる作品でした。