【『名作』一覧】童話や文学、戯曲など【海外と日本の有名作品集】
童話:『蜘蛛の糸』のご紹介です。
あらすじは読み聞かせができるようにまとめています。参考にして下さいませ。
- 蜘蛛の糸のあらすじ要約
- 作者紹介
- 考察:「伝えたいことは何だったのか?」
- 参考文献
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『蜘蛛の糸』のあらすじを簡単に短く要約
まずは考察の前提となるあらすじと作者紹介です。
物語:悪人に差し伸べられた救いの糸
ある日の朝のことでございます。
お釈迦様*は、極楽*にある蓮*の池を、覗き込んでいました。
そこには地獄があるのです。
そこでお釈迦様は、その地獄の中に、犍陀多という男がいるのを見つけました。
この犍陀多という男は、地獄に落ちる前、人を殺したり、家に火をつけたりした大泥棒でした。
しかし、そんな犍陀多にも、かつて一つだけ、良いことをした経験がありました。
それはある日のことです。
林の中にいた犍陀多は、そこで足元にいた一匹の小さな蜘蛛を見つけます。
踏みつぶそうとした犍陀多でしたが、次のように考えて思いとどまりました。
「小さいものにも命がある。その命をむやみに取るのは、いくらなんでもかわいそうだ」
犍陀多は、その蜘蛛を逃がしたのです。
お釈迦様は、そのことを知っていました。
そのため、お釈迦様は、犍陀多が良いことをした報いとして、犍陀多を地獄から助け出してあげようと考えます。
そこでお釈迦様は、近くにいた蜘蛛を手に取り、その糸を地獄の底へと垂らしました。
地獄で他の罪人と、もがいていた犍陀多は、天上から垂れてきたその糸を見つけます。
「これをのぼっていけば、地獄から抜け出せる…!」
そう考えた犍陀多は、とても喜びました。
さっそく犍陀多は、その蜘蛛の糸をしっかりと両手でつかみながら、一生懸命に上へ上へとのぼり始めます。
極楽までの長い距離をのぼっていく途中、犍陀多は疲れて、一休みをしました。
そのとき、犍陀多はふと下を見て驚きます。
なんと、とてつもない人数の罪人たちが、同じ蜘蛛の糸をつかみながら、後ろからよじのぼって来るではありませんか。
もし途中で蜘蛛の糸がその重さに耐えられずに切れてしまったら、自分までもが、元の地獄へ落ちてしまいます。
慌てた犍陀多は大声で叫びます。
「コラ!罪人ども!!この蜘蛛の糸は俺の物だぞ!下りろ!下りろ!!」
するとその瞬間です。
蜘蛛の糸は、犍陀多がつかんでいたところから、プツンと切れてしまいました。
犍陀多は再び暗い地獄の底へ、真っ逆さまに落ちていきました。
あとにはただ蜘蛛の糸がキラキラと光り、短く垂れているばかりです。
お釈迦様は、極楽からその一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、最後は悲しそうな顔をなさりながら、その場を離れていきました。
極楽の蓮の花は何も変わらず、良い香りが、あたりへ溢れております。
極楽はもう昼に近くなったのでしょう。
(おわり)
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[用語の説明]
*お釈迦様:釈迦(紀元前5世紀頃)のことであり、仏教の開祖
*極楽:仏を信じた人が死後に迎えられるという、苦しみのない世界のこと
*蓮:泥の中から生え、美しい花を咲かせる植物のこと
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作者:芥川龍之介
作者:芥川龍之介(1892~1927年)
1918年に発表された本作:『蜘蛛の糸』は、芥川龍之介がはじめて書いた児童向けの文学作品です。
「蜘蛛の糸」、「杜子春」など、子ども向けに書かれた作品もある。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
生まれは現在の東京都中央区の京橋。新原敏三の長男として生まれました。
辰の年、辰の月、辰の日、辰の時刻に生まれたので、龍之介(本名)と名づけられた。
(『学習人物事典』6ページ より)
しかし、生後まもなく母親が発狂したため、母親の実家である芥川家で育てられ、のち正式に芥川家の養子となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
病弱で神経質な読書好きの少年であった。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
府立三中(現在の東京都立両国高等学校)を経て、1910年(明治43年)に第一高等学校に入学。
学業成績が良かった芥川は、無試験で入学することができました。
その後、1913年(大正2年)には、東京帝国大学(現在の東京大学の前身)英文科に入学。
『羅生門』を発表するも、反響はありませんでした。
しかし、その作家活動の最中、自身の作品:『鼻』を夏目漱石に認められたことにより、新進作家と見なされるようになります。
大学生のとき、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』といった日本の古典を題材にした短編小説「鼻」を発表。
この作品が夏目漱石に絶賛され、文壇で注目されるようになった。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
大学卒業後は横須賀の海軍機関学校の教師や大阪毎日新聞社を経た後、1918年(大正7年)頃から本格的な作家活動を始めています。
作品:その他の代表作の一部
評価:『芥川賞』の制定
『芥川賞』は、芥川龍之介の功績を記念してつくられた文学賞です。
新人作家に与えられる文学賞である「芥川賞」の由来となった人物である。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
作風:人間のエゴイズムや芸術至上主義などを鋭く描いた
『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』などの初期の作品は、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった古典を材料として、これらの物語に登場する人物の心理にメスを入れ、人間のエゴイズム(自分だけの幸福や利益を追いもとめる考え方や態度)や、芸術至上主義(芸術を自分にとって最上のものと考え、宗教や道徳・政治などの上におく考えや態度)などをするどくえがいたものが多い。
(『学習人物事典』6ページ より)
『今昔物語集』という古典に取材しつつも、人間の本質と近代人の心理を追求するものであった。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
人物:「この世で信じられるものは自分の神経だけ」
龍之介は、この世で信じられるものは自分の神経だけだとくり返し書いているが、そのようなとぎすまされた、するどい感性と知性で『手巾』『蜜柑』『トロッコ』などの作品を書き、やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
特徴:短編小説が多かった
なお、繰り返す通り、芥川龍之介の作品には、短編小説が多いことが特徴でもありました。
(前略)やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
晩年:暗く苦しげな作風への変化
(前略)1919(大正8)年頃から「疲労と倦怠」の中で、不眠・神経衰弱が進行し(後略)
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
(前略)1925(大正14)年ごろから神経衰弱や胃腸病になやみ、また、そのころさかんになってきたプロレタリア文学に、新しい時代の新しい芸術を感じとっていた。
(『学習人物事典』6、7ページ より)
(前略)26(大正15)年には、創作上の苦しみもあって、友人に自殺の決意を語っている。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
そして、それに自分の芸術がついていけないのではないかという不安から、かれの作品はしだいに暗く苦しげなものとなり、『玄鶴山房』『河童』などのけっ作を発表したものの、1927(昭和2)年7月、田端(いまは北区田端)の自宅で睡眠薬自殺をとげた。
(『学習人物事典』7ページ より)
「唯ぼんやりした不安」
「唯ぼんやりした不安」という遺書の言葉は、大きな不安に向かう時代を象徴するものとして、知識人に衝撃を与えた。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
「『蜘蛛の糸』が伝えたいことは何だったのか?」【考察】
では、「作者:芥川龍之介が、本作:『蜘蛛の糸』で伝えたいことは何だったのでしょう?」
参考文献を元に考察しました。
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注:ここからの情報は自分独自の考察に過ぎません。
間違っていないとは言い切れませんので、あくまで一つの参考にして下さいませ。
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『因果応報』
結論からいうと、作者の芥川龍之介は、『因果応報』に近い教訓を、本作を通じて伝えたかったのだろうと自分は考察します。
【『因果応報』とは?】
『良い行いをすれば良い報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある』という意味の言葉
人間の行為(カルマ)によってその幸・不幸や運命が決まるという考え。
輪廻転生の考えと結びついて、前世の行為の結果として現世があり、また現世の行為のあり方によって来世の生活が決まる。
(『倫理用語集』74ページ 因果応報 より)
なぜなら、この『因果応報』は元々、仏教用語になりますが、本作の世界観は仏教的な要素が強いからです。
たとえば、仏教の開祖である”お釈迦様”の存在や、仏教用語としてもおなじみの”極楽”の存在などが、作中で描かれていることがその理由になります。
また繰り返す通り、本作は作者の芥川龍之介が生涯ではじめて書いた児童向けの文学作品です。
よって本作が児童を対象としていたことも、この因果応報のような、ある意味、道徳的な人間の本質を伝えたかった理由としても説明がつきます。
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なお、この『因果応報』については、同作者の名作:『羅生門』においても指摘させていただきました。
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思いやりの大切さ
さらに本作の最後では、お釈迦様が再び地獄に落ちた犍陀多を見て、悲しむ様子が描写されていました。
これはおそらく犍陀多がかつて蜘蛛に見せた思いやりの心を、お釈迦様は地獄の窮地においても犍陀多に再び見せて欲しかった…ということが表されていたと自分は考えます。
そしてもしそうであるなら、この『思いやりの大切さ』を考えさせられるような描写も、本作を見た人に対する作者からの一つのメッセージだったような気もしています。
『蜘蛛の糸』の物語様式
最後は本作:『蜘蛛の糸』で使われていた物語様式についてです。
本作への理解を深める一つの参考にしていただければと思います。
『枠物語』の様式が使われている
本作:『蜘蛛の糸』には、『枠物語』の様式が使われていました。
白百合女子大学大学院児童文学専攻(当時)の池田美桜さんは、この『枠物語』を次のように解説して下さっています。
伝聞形式や過去回想形式等を用いることで作品中に一つ以上の物語を埋め込んでいる、入れ子型構造の物語形態をいう。枠小説とも。
(『童話学がわかる』168ページ より)
つまり本作に置き換えるなら、林の中で犍陀多が一匹の蜘蛛を見かけ、その蜘蛛を逃がした過去回想の場面こそが、この『枠物語』に当てはまります。
白百合女子大学文学部助教授(当時)の井辻朱美さんは、このような『枠物語』の様式を、次のように解説なされていました。
枠物語とは古くは『千一夜物語』にもさかのぼることのできる、物語の中に物語のある入れ子構造のことであるが、今世紀になってからの枠物語の大半は、C・S・ルイスの「ナルニア国物語」のように、<ここ>に住む主人公たちが、異世界へいざなわれて冒険をし、<ここ>にもどってくるという形をとるようになった。
(『童話学がわかる』147ページ より)
少なくとも本作の『枠物語』にあたる部分は、あらすじ全体のなかで、重要な場面の一つだったと見ることもできそうです。
『枠物語』とは?代表作品12例からその効果を考察【わかりやすく説明】
「『蜘蛛の糸』が伝えたいことは何だったのか?」あらすじを簡単に短く要約&考察まとめ
本作:『蜘蛛の糸』は、『因果応報』について考えさせられる、道徳の教材にもなり得るような物語でした。
いつの時代にも、誰にとっても教訓になる側面が、作中では描かれていたように自分は思います。
もし犍陀多が自己中心的でなく、他の罪人のことを思いやる行動をとっていれば…蜘蛛の糸は決して切れることはなかったのかもしれません。