【『名作』一覧】童話や文学、戯曲など【海外と日本の有名作品集】
名作:『鼻』のご紹介です。
あらすじは読み聞かせができるようにまとめています。参考にして下さいませ。
- 『鼻』のあらすじ要約
- 作者紹介
- 考察:「伝えたいことは何だったのか?」
- 参考文献
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『鼻』のあらすじ内容を簡単に短く要約
まずは考察の前提となるあらすじと作者紹介です。
物語:長い鼻に悩んだお坊さんが気づかされたこと
高僧*:禅智内供*というお坊さんの鼻といえば、京都で知らない者はいない。
15cm以上もあるその長い鼻は、口を通り越し、あごの下まであり、形も上から下まで同じように太かった。
内供は、「鼻の長さなんか気にしていない」というふりはしていたものの、内心ではとても悩んでいた。
実際、その鼻では、食事も一人ではできない。
弟子に頼んで板で鼻を持ち上げてもらわないと、口に食べ物を運べなかったからだ。
そして何より内供が苦しかったのは、その鼻により、自尊心*が傷つけられることにあった。
内供は、実際よりも鼻を短く見せるにはどうすればいいかをあれこれと考えていた。
自分と似た鼻はないかと人の鼻ばかりを気にし、短くなると聞けば、ネズミのオシッコを鼻へなすりつけたこともあった。
しかし、どうやっても鼻を短く見せることはできなかった。
ある年の秋。
弟子の一人が、医者から鼻を短くする方法を教わってきた。
それはお湯で鼻をゆで、その鼻を他の人に踏ませるというものだった。
内供は、実際にやってみることにした。
「もう、ゆだった頃でございます」
弟子がそう言うと、長い鼻を熱湯から引き抜き、力を入れて弟子に踏ませ始めた。
鼻はむずがゆく、痛いよりも、かえって気持ちがいい。
やがて鼻から出てきた脂を取り除き、さらにもう一度、その鼻をゆで始めた。
さて、二度目にゆで上がると、なんと鼻は嘘のように短くなった。
「すぐ元に戻るのでは」と心配したものの、しばらくしても鼻は短いまま。
一晩寝ても、鼻は依然として短い。
内供はほっとして、のびのびとした気分になった。
ところが、三日経つうちに、内供は意外な事実を発見した。
皆がくすくすと笑うのだ。
内供は、はじめは自分の顔が変わったせいで笑われているのだと思っていたが、どうもしっくりこない。はて。
それは内供には解き明かせぬことだが、人間には、人の不幸に同情*する心がある。
しかし、その不幸を切り抜けた人を見ると、今度は物足りないような気持ちが芽生えてくるようだ。
そして、「もう一度その人を同じ不幸に陥れてみたいような気にさえなる」
そのことに気づくと、内供は気分が悪くなった。
内供は、日毎に機嫌が悪くなり、二言目には、誰にでも意地悪く叱りつけた。
ある夜のこと。
鼻がむずがゆく熱っぽい。
翌朝、眼を覚ました内供が、朝日の光を深く吸い込んだそのとき、ある感覚がよみがえった。
鼻が長くなっていたのだ。
慌てて鼻へ手をやると、そこには昔の長い鼻がぶら下がっていた。
「こうなれば、もう誰も笑う者はいないに違いない」
内供は、晴れ晴れとした心持ちが、どこからともなく帰ってくることを感じた。
(おわり)
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[用語の説明]
*高僧:位や徳が高い僧のこと
*内供:『内供奉』の略。宮中にあった仏教の道場で、仏に天皇の健康を祈った身分の高い僧のこと
*自尊心:自分のことを誇らしく思う心
*同情:他人の不幸や苦しみを感じて思いやること
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作者:芥川龍之介
作者:芥川龍之介(1892~1927年)
本作:『鼻』は1916年に発表された作品です。
なお、芥川は夏目漱石に本作を認められたことにより、作家として注目されるようになりました。
大学生のとき、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』といった日本の古典を題材にした短編小説「鼻」を発表。
この作品が夏目漱石に絶賛され、文壇で注目されるようになった。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
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生まれは現在の東京都中央区の京橋。新原敏三の長男として生まれました。
辰の年、辰の月、辰の日、辰の時刻に生まれたので、龍之介(本名)と名づけられた。
(『学習人物事典』6ページ より)
しかし、生後まもなく母親が発狂したため、母親の実家である芥川家で育てられ、のち正式に芥川家の養子となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
病弱で神経質な読書好きの少年であった。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
府立三中(現在の東京都立両国高等学校)を経て、1910年(明治43年)に第一高等学校に入学。
学業成績が良かった芥川は、無試験で入学することができました。
その後、1913年(大正2年)には、東京帝国大学(現在の東京大学の前身)英文科に入学。
『羅生門』を発表するも、反響はありませんでした。
しかし、その作家活動の最中、本作:『鼻』を夏目漱石に認められ、新進作家と見なされるようになります。
大学卒業後は横須賀の海軍機関学校の教師や大阪毎日新聞社を経た後、1918年(大正7年)頃から本格的な作家活動を始めています。
作品:その他の代表作の一部
評価:『芥川賞』の制定
『芥川賞』は、芥川龍之介の功績を記念してつくられた文学賞です。
新人作家に与えられる文学賞である「芥川賞」の由来となった人物である。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
作風:人間のエゴイズムや芸術至上主義などを鋭く描いた
『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』などの初期の作品は、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった古典を材料として、これらの物語に登場する人物の心理にメスを入れ、人間のエゴイズム(自分だけの幸福や利益を追いもとめる考え方や態度)や、芸術至上主義(芸術を自分にとって最上のものと考え、宗教や道徳・政治などの上におく考えや態度)などをするどくえがいたものが多い。
(『学習人物事典』6ページ より)
『今昔物語集』という古典に取材しつつも、人間の本質と近代人の心理を追求するものであった。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
人物:「この世で信じられるものは自分の神経だけ」
龍之介は、この世で信じられるものは自分の神経だけだとくり返し書いているが、そのようなとぎすまされた、するどい感性と知性で『手巾』『蜜柑』『トロッコ』などの作品を書き、やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
特徴:短編小説が多かった
なお、繰り返す通り、芥川龍之介の作品には、短編小説が多いことが特徴でもありました。
(前略)やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。
(『学習人物事典』6ページ より)
晩年:暗く苦しげな作風への変化
(前略)1919(大正8)年頃から「疲労と倦怠」の中で、不眠・神経衰弱が進行し(後略)
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
(前略)1925(大正14)年ごろから神経衰弱や胃腸病になやみ、また、そのころさかんになってきたプロレタリア文学に、新しい時代の新しい芸術を感じとっていた。
(『学習人物事典』6、7ページ より)
(前略)26(大正15)年には、創作上の苦しみもあって、友人に自殺の決意を語っている。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
そして、それに自分の芸術がついていけないのではないかという不安から、かれの作品はしだいに暗く苦しげなものとなり、『玄鶴山房』『河童』などのけっ作を発表したものの、1927(昭和2)年7月、田端(いまは北区田端)の自宅で睡眠薬自殺をとげた。
(『学習人物事典』7ページ より)
「唯ぼんやりした不安」
「唯ぼんやりした不安」という遺書の言葉は、大きな不安に向かう時代を象徴するものとして、知識人に衝撃を与えた。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
「『鼻』で芥川龍之介が伝えたいことは何だったのか?」【2つの考察と解説】
では、「作者:芥川龍之介が、本作:『鼻』で伝えたいことは何だったのでしょう?」
参考文献を元に考察しました。
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注:ここからの情報は自分独自の考察に過ぎません。
間違っていないとは言い切れませんので、あくまで一つの参考にして下さいませ。
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<1>「人と比べなくてもいい」
まず一つ目は、『人と比べなくてもいい』ということです。
なぜなら、本作では自身の長い鼻に思い悩んでいた内供が、最後には人と比べることをやめたことにより、その悩みから解き放たれた様子が描かれていたからです。
よってそこから読み取れることは、『その人が持っている特徴は個性の1つ。人と比べる必要はない』といったようなことだと自分は考察しました。
もちろん現実問題として、生きるうえでは人と比べることは避けられないかもしれません。
ですが、少なくとも本作からは、悩みの解決方法はそれ自体を消し去ろうとすることだけがすべてではなく、あるがままに受け入れることも時として解決策となり得る…そんなメッセージが示唆されていたように思います。
<2>不幸を喜ぶ人間の心理
二つ目は、『他人の不幸を喜ぶ人間の心理』です。
『シャーデンフロイデ*』という言葉がありますが、本作ではそんな、人の不幸を喜ぶ人間心理が鋭く描かれていました。
*シャーデンフロイデ:人の不幸を喜ぶ感情のこと
とはいえ、そのような描写は本作の作者:芥川 龍之介の作風の一端ともされています。
『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』などの初期の作品は、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった古典を材料として、これらの物語に登場する人物の心理にメスを入れ、人間のエゴイズム(自分だけの幸福や利益を追いもとめる考え方や態度)や、芸術至上主義(芸術を自分にとって最上のものと考え、宗教や道徳・政治などの上におく考えや態度)などをするどくえがいたものが多い。
(『学習人物事典』6ページ より)
『今昔物語集』という古典に取材しつつも、人間の本質と近代人の心理を追求するものであった。
(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)
そのため、この『他人の不幸を喜ぶ人間の心理』のような、人間の内面に焦点を当てたメッセージも、作者が本作で伝えたかったことの一端だったのではないかと自分は考察しました。
夏目漱石から評価された理由だった?
ちなみに本作は作者紹介の欄でもご紹介させていただいた通り、夏目漱石から高く評価された作品でもありました。
大学生のとき、『今昔物語集』、『宇治拾遺物語』といった日本の古典を題材にした短編小説「鼻」を発表。
この作品が夏目漱石に絶賛され、文壇で注目されるようになった。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)
また本作が出版された1916年というのは、そんな夏目 漱石が亡くなった年でもあります。
晩年の夏目 漱石は、病気をきっかけに、人間の心理を特に深く追求するようになったとされています。
漱石は、以前から胃が悪かったが、1910(明治43)年、胃かいようで入院し、伊豆(静岡県)の修善寺温泉で療養中に大吐血し、あやうく命をとりとめた。
この修善寺の体験を境として、漱石の人生観や芸術観は深まり、それまでゆとりのある態度で人生や社会をながめていたのが、目を人間の内面に向け、人間の心理を深くほりさげ、人間のエゴイズム(利己主義)をねばり強く追求するようになっていった。
『彼岸過迄』(1912年)、『行人』(1912~13年)、『こゝろ』(1914年)などが、そうした作品である。
さらに漱石は、『道草』(1915年)、『明暗』(1916年)でいっそう人間と人生を広く深くとらえていこうとしたが、ふたたびたおれ、十数日後の1916(大正)年12月9日、50歳でこの世を去った。
(『学習人物事典』326、327ページ 夏目 漱石 より)
よってそんな夏目 漱石が本作のような人間の内面に焦点が当てられた作品を評価したことには、もしかしたら以上のような背景もあったのかもしれません。
「『鼻』で芥川龍之介が伝えたいことは何だったのか?」あらすじを簡単に短く【考察と解説】まとめ
本作:『鼻』は、ユーモアな面白いところが散りばめられた作品です。
とはいえ、そこで描かれていたことは、人間心理の本質でもあったように自分は考察します。
あらすじのなかで内供が抱いていた心情に、共感できる方は少なくないのではないでしょうか。