「『杜子春』が伝えたいことは何だったのか?」あらすじと教訓と考察を短く要約【芥川龍之介】

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名作:『杜子とししゅん』のご紹介です。

あらすじは読み聞かせができるようにまとめています。参考にして下さいませ。

このページでわかること
  1. 『杜子春』のあらすじ要約
  2. 作者紹介
  3. 教訓を考察:「伝えたいことは何だったのか?」
  4. 学校教育にまつわる情報
  5. 参考文献

『杜子春』のあらすじを短く要約

まずは考察の前提ともなるあらすじと作者紹介です。

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物語:気づかされた大切なこと

万里の長城

あるはるぐれです。

ひとくるまでにぎわうとう*のみやこ洛陽らくよう*の西にしもんしたに、ぼんやりとつきながめている杜子とししゅんという若者わかものがいました。

おや財産ざいさん使つかり、生活せいかつこまるほどまずしかった杜子とししゅんは、「(はらったし、かわげてのうか…)」とおもっていたのです。

すると、ある老人ろうじんがやってきて、つぎのようにいました。

 

いまゆうなかでここにってみなさい。おまえかげあたまたるところを、ちたらってみるといい。そこに黄金おうごんまっている」

 

杜子とししゅんおどろきました。

しかし、老人ろうじんとおりにあなってみたところ、本当ほんとうにたくさんの黄金おうごんてきたのです。

たちまち大金おおがねちになった杜子とししゅんは、とてもぜいたくならしをしはじめました。

すると、そのうわさいて、杜子とししゅんのもとには、それまであまりしたしくなかったひとあそびにくるようになりました。

 

ところが、三年さんねんつと、杜子とししゅん貧乏びんぼうぎゃくもどり。

杜子とししゅんはおかね使つかたしてしまい、ほとんどのひとは、あそびにこなくなりました。

かねちだったころ友達ともだちは、みならんかおだれたすけてはくれません。

 

そこで、杜子とししゅんはまた西にしもんしたきました。

すると、またあのときの老人ろうじんあらわれます。

老人ろうじんは、「こんかげむねぶんってみよ」といました。

杜子とししゅんはまたそのとおりにしてみると、またしても黄金おうごんて、大金おおがねちになりました。

ところが、杜子とししゅんはまたしてもりずにぜいたくのかぎりをくしたので、またまた三年余さんねんあまりでおかね使つかたしてしまいました。

 

そんな杜子とししゅんまえに、ふたた老人ろうじんあらわれます。

老人ろうじん杜子とししゅんたいし、また大金おおがねちになる方法ほうほうおしえようとしました。

しかし、杜子とししゅんは、「もうおかねはいりません。おかねのあるときだけちかづいてきて、貧乏びんぼうになると見向みむきもしない人間にんげんにはあいきたのです」とい、老人ろうじんに、「弟子でしにしてもらえませんか?」とおねがいしました。

 

じつは老人ろうじんは、鉄冠てっかんという仙人せんにん*だったのです。

杜子とししゅんいちでおかねちにできたのは、仙人せんにんじゅつがあったからなのでした。

 

鉄冠てっかんは、「おまえどころがある」とい、杜子とししゅん仙人せんにんしゅぎょうをすることをゆるしました。

すると鉄冠てっかんは、杜子とししゅんたかやま頂上ちょうじょうすわらせて、「これからは色々いろいろなことがこるが、こえしてはいけない」とちゅうし、杜子とししゅん様々さまざまれんあたえました。

 

杜子とししゅんれんつづけ、一切声いっさいこえしませんでした。

とらへびおそわれて、「おまえ何者なにものだ?こたえないといのちはないぞ」とわれたときも、杜子とししゅん一言ひとこともしゃべりませんでした。

すると、けものまぼろしのようにえていきました。

おおあらしかみなりったときも、杜子とししゅんごんえました。

 

しかし、ついにおこったしんしょう*に、杜子とししゅんげき*でかれてしまいます。

杜子とししゅんごくち、えん大王だいおう*のまえれていかれました。

くちひらかねばごくわせるぞ」

杜子とししゅんけんやまいけごくほうまれました。

しかし、それでも杜子とししゅんくちひらきません。

そこで大王だいおうは、ごうじょう杜子とししゅんまえに、ひきうまきずりしました。

うま杜子とししゅんおどろきます。

 

うまかおが、んだちちははにそっくりなのです。

杜子とししゅんちちははは、うま姿すがたえられてしまっていたのでした。

 

大王だいおうは、うまてつむちたたきます。

それでもひっだまっていた杜子とししゅんでしたが、ははかおをしたうまが、杜子とししゅんいます。

わたしはどうなっても、おまえしあわせならそれでいい」

 

杜子とししゅんはとうとう、「おかあさん!」とさけんでしまいました。

 

がつくと、そこはもと西にしもんしたです。

杜子とししゅんは、仙人せんにんにはなれませんでした。

しかし、鉄冠てっかんは、「あのままだまっていたら、おまえのことをころしていた」といました。

杜子とししゅん決心けっしんしました。

 

仙人せんにんになれなかったことがうれしい。人間にんげんらしいしょうじきらしをする」

 

そのこといた鉄冠てっかんは、ぶんっているいえはたけを、杜子とししゅんあたえることにしたのでした。

(おわり)

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よう説明せつめい

とうちゅうごくに618~907ねんまであったおうちょうまえ

洛陽らくようとうにかつて存在そんざいしただい都市としで、現在げんざいちゅうごく洛陽らくようのこと

仙人せんにん人里離ひとざとはなれたやまなかみ、不思議ふしぎちから使つかひとのこと。永遠えいえんきるとされている

しんしょうぶっきょうまも神様かみさま

げきだいちゅうごく武器ぶきで、ながさきものがついている

えん大王だいおうごくおうであり、しゃ生前せいぜんつみさば

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作者:芥川龍之介

芥川龍之介

作者:あくたがわりゅうすけ(1892~1927年)

1920年に発表された本作:『杜子とししゅん』は、児童向けの文学作品です。

蜘蛛くもの糸」、「杜子とししゅん」など、子ども向けに書かれた作品もある。

(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)

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生まれは現在の東京都中央区の京橋。新原敏三にいはらとしぞうの長男として生まれました。

たつの年、辰の月、辰の日、辰の時刻に生まれたので、龍之介(本名)と名づけられた。

(『学習人物事典』6ページ より)

しかし、生後まもなく母親が発狂したため、母親の実家である芥川家で育てられ、のち正式に芥川家の養子となった。

(『学習人物事典』6ページ より)

病弱で神経質な読書好きの少年であった。

(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)

府立三中(現在の東京都立両国高等学校)を経て、1910年(明治43年)に第一高等学校に入学。

学業成績が良かった芥川は、無試験で入学することができました。

その後、1913年(大正2年)には、東京帝国大学(現在の東京大学の前身)英文科に入学。

羅生門』を発表するも、反響はありませんでした。

しかし、その作家活動の最中、自身の作品:『』をなつ漱石そうせきに認められたことにより、新進作家と見なされるようになります。

大学生のとき、『こんじゃく物語集』、『宇治うじしゅう物語』といった日本の古典を題材にした短編小説「はな」を発表。

この作品がなつ漱石そうせきに絶賛され、文壇で注目されるようになった。

(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)

大学卒業後は横須賀の海軍機関学校の教師や大阪毎日新聞社を経た後、1918年(大正7年)頃から本格的な作家活動を始めています。

作品:その他の代表作の一部

>>羅生門

>>鼻

>>蜘蛛の糸

>>トロッコ

>>白

>>芋粥いもがゆ

>>蜜柑みかん

>>やぶの中

評価:『芥川賞』の制定

芥川賞』は、芥川龍之介の功績を記念してつくられた文学賞です。

新人作家に与えられる文学賞である「あくたがわしょう」の由来となった人物である。

(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)

作風:人間のエゴイズムや芸術至上主義などを鋭く描いた

『羅生門』『鼻』『芋粥』『地獄変』などの初期の作品は、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』といった古典を材料として、これらの物語に登場する人物の心理にメスを入れ、人間のエゴイズム(自分だけの幸福や利益を追いもとめる考え方や態度)や、芸術至上主義(芸術を自分にとって最上のものと考え、宗教や道徳・政治などの上におく考えや態度)などをするどくえがいたものが多い。

(『学習人物事典』6ページ より)

こんじゃく物語集』という古典に取材しつつも、人間の本質と近代人の心理を追求するものであった。

(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)

人物:「この世で信じられるものは自分の神経だけ」

龍之介は、この世で信じられるものは自分の神経だけだとくり返し書いているが、そのようなとぎすまされた、するどい感性と知性で『手巾ハンケチ』『蜜柑』『トロッコ』などの作品を書き、やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。

(『学習人物事典』6ページ より)

特徴:短編小説が多かった

なお、繰り返す通り、芥川龍之介の作品には、短編小説が多いことが特徴でもありました。

(前略)やがて大正時代の代表的な短編小説家となった。

(『学習人物事典』6ページ より)

晩年:暗く苦しげな作風への変化

(前略)1919(大正8)年頃から「疲労と倦怠けんたい」の中で、不眠・神経衰弱が進行し(後略)

(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)

(前略)1925(大正14)年ごろから神経衰弱や胃腸病になやみ、また、そのころさかんになってきたプロレタリア文学に、新しい時代の新しい芸術を感じとっていた。

(『学習人物事典』6、7ページ より)

(前略)26(大正15)年には、創作上の苦しみもあって、友人に自殺の決意を語っている。

(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)

そして、それに自分の芸術がついていけないのではないかという不安から、かれの作品はしだいに暗く苦しげなものとなり、『玄鶴山房』『河童』などのけっ作を発表したものの、1927(昭和2)年7月、田端(いまは北区田端)の自宅で睡眠薬自殺をとげた。

(『学習人物事典』7ページ より)

「唯ぼんやりした不安」

ただぼんやりした不安」という遺書の言葉は、大きな不安に向かう時代を象徴するものとして、知識人に衝撃を与えた。

(『倫理用語集』174ページ 芥川龍之介 より)

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「『杜子春』が伝えたいことは何だったのか?」【2つの教訓と考察】

では、「本作:『杜子春』を通じて、作者が伝えたいことは一体何だったのでしょう?」

参考文献を元に、2つのことを考察しました。

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注:ここからの情報は自分独自の考察に過ぎません。

間違っていないとは言い切れませんので、あくまで一つの参考にして下さいませ。

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<1>思いやりの大切さ

まず一つ目は、『思いやりの大切さ』です。

なぜなら、本作では主人公である杜子春が、馬の姿に変えられた母とのやり取りを通して、思いやりの心を取り戻した様子が描かれていたからです。

さらにそれによって杜子春自身が生き方を見直すことになっただけでなく、仙人もそんな杜子春のことを認め、最後には杜子春に家と畑を与えることに決めています。

以上のことは、人間らしい思いやりの心を持つことに、大きな価値があると強調されていたように自分には見えました。

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<2>お金は人生のすべてではない

そして二つ目は、『お金は人生のすべてではない』になります。

この理由は、本作に登場した杜子春が、大金を手にして束の間の幸せを手に入れたものの、結局それは杜子春にとって本当の幸せではなかった…ということが描かれていたためです。

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もちろんお金は人生において決して不必要なものではありませんが、少なくとも杜子春が最後に望んだ『人間らしい正直な暮らし』のなかには、大金の必要性は含まれていないようでした。

「では、一体人生で必要なものは何か?」とのことですが、それは本作で具体的に明かされていたわけではありません。

とはいえ、これは自分が思うに、本作は、人生において大切なものは人それぞれであるということも同時に伝えたかったようにも感じました。

よってもしそのことを前提にするのであれば、本作の最後で杜子春が言った『人間らしい正直な暮らし』を現実に実践するためには、結局のところその人自身がその言葉の意味をどう思い描くかによって見出すしかない気もしています。

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『杜子春』と学校教育

最後は童話:『杜子春』の学校教育にまつわる情報です。

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小学6年生の教科書に掲載

まず本作は小学校6年生の教科書に掲載されたことがあります。

「杜子春」は、小学六年生の教科書にその一部が採録された。

(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)

実際に行われた指導例:『工夫されている描写に注意して朗読』

なお、実際の学校教育の現場では、本作は、『登場人物や情景の描写で、特に工夫されていることに注意して朗読する』といった指導に結び付けられたことがあるようです。

「杜子春」は、小学六年生の教科書にその一部が採録された。

授業では、登場人物や情景の描写で、特に工夫されている点に注意して朗読する、という指導が行われた。

(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』223ページ 芥川龍之介 より)

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「『杜子春』が伝えたいことは何だったのか?」あらすじと教訓と考察を短く要約【芥川龍之介】まとめ

童話:『杜子春』は、一人の若者が様々な経験を通して、本当に大切なことを見出していく物語でした。

そこで描かれていたことは、思いやりの心や、人生を生きていくうえでの価値観などといった、幅広い教訓があったように思います。

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参考文献

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