【『名作』一覧】童話や文学、戯曲など【海外と日本の有名作品集】
名作:『冬が来た』をご紹介させていただきました。
全文ふりがな付きでまとめています。
一つの参考にして下さいませ。
- 全文ふりがな付きの作品内容
- 作者紹介
- 解説と考察
- 参考文献
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『冬が来た』の内容
まずは詩の内容と作者紹介です。
冬よ
きっぱりと冬が来た
八つ手*の白い花も消え
公孫樹の木も箒になった
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のような冬が来た
(おわり)
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[用語の説明]
*八つ手:冬になると白い花を咲かせるウコギ科の植物のこと
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作者:高村光太郎
作者:高村光太郎(1883~1956年)
現在の東京都出身の詩人であり彫刻家であり歌人。
本名光太郎。
(『学習人物事典』260ページ より)
詩集:『智恵子抄*』などが知られる。
*智恵子抄:1941年に出版された光太郎の詩集。妻である智恵子の生前や死後に思い出をつづった29編の詩や、6首の短歌、3編の散文が収められている
いずれも愛妻智恵子に対する深い愛情につらぬかれ、読む者に強い感動をあたえる。
(『学習人物事典』261ページ 智恵子抄 より)
作者のその他の代表作には『レモン哀歌』や『あどけない話』、『道程』など多数。
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東京に、有名な彫刻家であった高村光雲の長男として生まれた。
光太郎も将来は、彫刻家となることが求められていた。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 再び』162ページ より)
*高村光雲:光太郎の父。東京上野公園の『西郷隆盛像』などの代表作がある彫刻家
その後、父に木彫*を学んだ光太郎は、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部の前身)の彫刻科に入学。
*木彫:木材に彫刻すること
文学へ興味を持ち始めたのは、この大学在学中からだったとされています。
また、このころロダン*の彫刻『考える人』の写真をみて大いに感銘を受けた。
1906(明治39)年アメリカ合衆国へわたって、ニューヨークで彫刻家荻原守衛*と親交をむすぶ。
その後ロンドン、パリと3年間の留学ののち帰国、その間にロダンから大きなえいきょうを受けた。
(『学習人物事典』260、261ページ より)
*ロダン:近代彫刻の基礎を築いたフランス最大の彫刻家
*荻原守衛:日本における近代彫刻の道を開いた彫刻家
帰国後すぐ、わかい芸術家たちの集まりであった〈パンの会〉に参加して、きまりや道徳にしばられない気ままな生活を送った。
(『学習人物事典』261ページ より)
転機:智恵子との結婚
1914(大正3)年、長沼智恵子との結婚を転機として、人間の自由やとうとさをうたう詩人として再出発し、詩集『道程』(1914年)から、『智恵子抄*』につづくさまざまな作品を通じて、その人生態度を深めていった。
(『学習人物事典』261ページ より)
以下再掲。
*智恵子抄:1941年に出版された光太郎の詩集。妻である智恵子の生前や死後に思い出をつづった29編の詩や、6首の短歌、3編の散文が収められている
いずれも愛妻智恵子に対する深い愛情につらぬかれ、読む者に強い感動をあたえる。
(『学習人物事典』261ページ 智恵子抄 より)
活躍:多彩な才能
『道程』、『智恵子抄』などの詩集から、詩人としてのイメージが最も強いと思われる。
その一方で、歌集も出版され、随筆や美術に関する評論も著している。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 再び』162ページ より)
繰り返しになりますが、彫刻家としても活躍しました。
(前略)青森県の十和田湖畔にある「乙女の像」など、有名な彫刻も残している。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 再び』162ページ より)
なお、『乙女の像』は、青森県からの依頼により制作された像になります。
思想:人道主義
『智恵子抄』で有名な人道主義の詩人。
(『学習人物事典』260ページ より)
学生時代から文芸雑誌『明星』に短歌などを発表していたが、このころから詩作を始め、感覚や官能を強調する退廃的な詩を多く書いた。
やがて白樺派(人道主義や理想主義をとなえて、大正期に活やくした文学者グループ)の文学者と交流するうちに、理想主義(現実をこえて、真理と美を追求しようとする態度)にかたむいていった。
(『学習人物事典』261ページ より)
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なお、この人道主義の立場に立つ作家には、ロシアの文豪:レフ・トルストイなどの存在が知られています。
人間主義・人道主義などと訳される。(中略)
20世紀のヒューマニズムは、暴力・束縛・疎外・抑圧・不正などといった非人間的な状況に対して、人間性の擁護と解放を掲げて闘う思想や運動をさす。
現代ヒューマニズムの立場にたつ代表者として、トルストイ・ロマン=ロラン・シュヴァイツァー・ガンディーなどがあげられる。
(『倫理用語集』263ページ ヒューマニズム(人道主義) より)
トルストイの思想は、ガンディーやロマン=ロラン、日本の白樺派同人など、世界の多くの人々に大きな影響を与えた。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
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「『冬が来た』の作者の気持ちとは?」解説と考察
では、「本作:『冬が来た』の作者の気持ちとは何だったのでしょう?」
解説させていただきました。
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注:ここからの情報は自分独自の考察も含みます。
間違っていないとは言い切れませんので、あくまで一つの参考にして下さいませ。
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<結論>『困難に立ち向かう作者の強い気持ち』
結論からいうと、『本作では作者:高村光太郎の、困難に立ち向かう強い気持ちが表現されていた』と自分は考察しました。
その理由は大きく分けて2つあります。
理由1:作者の強い意志表示がある
まず1つ目の理由は、『詩のなかに作者のハッキリとした強い意志表示がある』こと。次の通りです。
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
上記の表現からは、冬に対する作者の強い気持ちを見て取ることができます。
理由2:冬の厳しさを困難にたとえていると考察
そして2つ目の理由は、『冬の厳しさを困難にたとえている』と自分が解釈したことにあります。
一例ですが、本作では冬の厳しさが、次のように表現されていました。
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た
とはいえ、この2つ目の理由は、人によって解釈が分かれるかもしれません。
なぜなら、人によってはこの詩の内容は何かのたとえではなく、単に冬の厳しさに対してのことだとも解釈できるからです。
むしろその方が自然かもしれません。
しかし、その一方で本作に限らず、詩にはよく比喩(たとえの表現技法)が使われます。
さらに自分は作者の他作:『道程』にも、本作と同様の比喩が使われていたと考察しているため、本作における”冬の厳しさ”も比喩が使われていたと乱暴ながらも考えました。
よって以上のことが、『本作には困難(≒冬の厳しさ)から逃げず、立ち向かおうとする作者の強い気持ちが表されていた』と自分が考察した理由です。
【『冬が来た』の作者の気持ち】解説【高村光太郎の詩】まとめ
本作:『冬が来た』には、困難に立ち向かう作者の強い気持ちが表されていたように自分は考えました。