【『名作』一覧】童話や文学、戯曲など【海外と日本の有名作品集】
名作:『イワンの馬鹿』のご紹介です。
あらすじは読み聞かせができるようにまとめています。参考にして下さいませ。
- 『イワンの馬鹿』のあらすじ
- 作者紹介
- 考察
- 参考文献
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『イワンの馬鹿』のあらすじ内容
まずは考察の前提となるあらすじと作者紹介です。
物語:「バカ」と呼ばれた素直な青年イワン
昔、ある国に裕福な地主*が住んでいました。
その地主には三人の息子がいたといいます。
まず長男のシモンは王様に仕える軍人です。高い身分と領地を持っています。
次男のタラスは町の商人として、大金持ちになっていました。
そして三男で馬鹿*正直なイワンは、家に残って一生懸命に畑仕事をしていました。
またイワンはあるときシモンとタラスに「家の財産を分けてほしい」と言われたので、「いいとも。どうぞどうぞ」と分け与えたといいます。
そのため、イワンが住む家には年取った馬だけが残りました。
この様子を見ていたのが大悪魔です。
大悪魔は、イワンたち兄弟がケンカをしないことに、腹が立って仕方がありません。
そこで大悪魔は三匹の小悪魔を呼び出し、兄弟たちを仲違いさせるよう命じました。
さっそく小悪魔らは、シモンとタラスに取りつき、見事二人をだまします。
ですが、イワンについた小悪魔だけは、うまくいきません。
腹痛を起こさせたり、畑の土を固めたりしてみても、イワンは何度でも諦めずに畑仕事を続けるのです。
そればかりか、そのうちに小悪魔はイワンに捕まってしまいました。
ところがイワンはどんな痛みでも治せる木の根と引き換えに、その小悪魔を逃がしてあげます。
さらに残り二匹の小悪魔も順にイワンのもとへと行きましたが、それも失敗に終わってしまいました。
そこでもイワンはそれぞれの小悪魔から、わらが兵隊になる呪文と、金貨が出てくる樫の葉と引き換えに、小悪魔たちを逃がしてあげました。
一方、イワンが兵隊や金貨を出せることを知った兄たちは、それを使って王様になります。
イワンも病気になったお姫様を小悪魔に貰った木の根を使って治したことから、そのお姫様と結婚し、自身も王様になりました。
三兄弟はそれぞれが国を治めます。
シモンは兵隊を使って、タラスは金貨を使って。
しかし、イワンはというと、なんと妻となったお姫様といっしょに、畑仕事を続けていたのでした。
その一方で、小悪魔たちからの報告を待っていた大悪魔は、小悪魔たちがイワンたち兄弟の仲違いに失敗したことに気づきます。
そこで今度は、大悪魔が自ら悪さをすることを決心します。
「…わしの出番か」
大悪魔は人間に化け、まずはシモンの兵力とタラスの金貨の価値をすぐに奪って落ちぶれさせます。
そしていよいよイワンの番です。
大悪魔はイワンの国に、他国の兵隊を使って攻めさせます。
ところが、この国の人たちは戦うどころか、「欲しいものはあげましょう」、「いっしょに住みましょう」などと言うのです。
うまい話にも関心を示さなかったので、もちろん金貨も欲しがりませんでした。
イワンやイワンの国の人々たちは、ただ、真面目に働くだけなのでした。
それには他国の兵隊もなんだかうんざりしてしまいます。
結局、兵隊たちは諦めて、大悪魔の悪だくみも失敗に終わりました。
イワンの国には大勢の人々が集まります。それでもイワンは今までと変わることはありません。そしてイワンは次のように言うのでした。
「いいとも、いっしょに暮らそう。わしらにゃ何でもどっさりある」
(おわり)
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[用語の説明]
*地主:所有する土地を農民などに貸して収入を得る人のこと
*馬鹿:ここでいう「バカ」とは、正直すぎて気が利かないことを意味する
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作者:レフ・トルストイ
作者:レフ・トルストイ(1828~1910年)
なやみ苦しみながら、人間の真の幸せを考えつづけたロシアの大文学者
(『学習人物事典』314ページ より)
レフ・トルストイは、十九世紀のロシア文学を代表する小説家である。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』170ページ より)
ロシア出身の作家であり、思想家。
平和を理想に掲げ、領地の農民の教育や生活改善などに取り組んだ後、結婚を機に執筆活動に専念しました。
1886年に発表された本作:『イワンの馬鹿』は、ロシアの民話をもとにした作品になります。
欲がなくてお人よしのイワンが、最後には王様になるという筋を通して、はたらくことのとうとさ、金銭の悪などをうったえた作品。
(『学習人物事典』315ページ より)
その他の代表作には『飛び込め』や『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』など多数。
カザン大学を中退。結婚とともに宗教的信仰を深め、次々と大作を発表して順調な文筆活動を続け、名声も高まった。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
思想家としても知られ、ロシアの政治や社会にも影響を与えた。
(『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作』170ページ より)
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伯爵家の四男として、帝政ロシア(旧ソ連の前身)のトゥーラ市にほど近いヤースナヤ・ポリャーナに誕生。
父親はロシアでも指おりの名門の貴族だった。
母親はトルストイが2歳のときになくなったので、親せきの女性に育てられた。
人間に対する愛の気持ちをはぐくんでくれたのはかの女だったと、トルストイはのちに回想している。
(『学習人物事典』314ページ より)
幼い頃、両親と死別し、動揺・不安・放蕩の青年時代を過ごした。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
人物:農民への愛
何不自由ない子ども時代を送ったが、トルストイにいちばん大きなえいきょうをあたえたのは、ロシアの自然と農民の生活であった。
農民たちと身近にくらしているうちに、トルストイはしぜんに農民を愛するようになっていった。(中略)
故郷でトルストイは地主として農場の経営にのりだし、農民のくらしをあらためるように考えていったが、なかなかうまくはゆかず、1848年にはモスクワに出て、だらしのない生活を送るようになった。
(『学習人物事典』314ページ より)
転機:文学への道
そこで、1851年に生活をかえるために軍隊に入ったトルストイは、翌年に『幼年時代』を発表し、文学の道に進むようになった。
その後ロシアがトルコ・イギリスなどとたたかったクリミア戦争に従軍*したが、1856年3月に戦争がおわると軍隊をやめて、翌年、ヨーロッパに旅行した。
しかし、ヨーロッパの物質文明に失望したトルストイは、帰国して領地の農民のためにはたらく決心をした。
そして、ヤースナ・ポリャーナで農場経営に精を出すとともに、農民たちの教育にも力をつくした。
(『学習人物事典』314ページ より)
1861年に農奴解放令が発布されると、彼は農民側にたって、「暴力によって悪人に手向かうな」と非暴力主義を主張した。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
いっぽう、文学のしごとにも力を注ぎ、最初の長編小説『戦争と平和』(1863~1869年)が完成する。
この作品は、ナポレオン戦争を中心とした時代のロシアの社会をえがいた、世界文学でも数少ない雄大な作品である。
それから4年ほどして、トルストイは第2の大作『アンナ=カレーニナ』(1873~1876年)を書きはじめ、4年近い歳月をかけて完成した。
(『学習人物事典』314ページ より)
*クリミア戦争に従軍:青年だったトルストイは、砲兵隊の士官として参加。またその戦いのありさまは、『セバストポリ物語』など、いくつかの作品に残している
思想:『トルストイ主義』
このころからトルストイの考え方は大きくかわり、社会制度をあらためるだけでは人間はすくえないと考えて、いろいろまよったすえに、ついに宗教に救いを見いだすようになった。
トルストイはその考えを、『告白*』(1880~1882年)によって明らかにしている。
この世界にはびこる不正をなくすには、暴力によらず、キリスト教的な人間愛によるべきだとする<トルストイ主義>は、童話『イワンの馬鹿』(1885年)にもよくあらわされている。
(『学習人物事典』315ページ より)
『戦争と平和』や『復活』などの作品を書いたトルストイは、人間と世界をすくう道を考えつづけ、トルストイ主義を説いて世界に大きなえいきょうをおよぼした。
(『学習人物事典』314ページ より)
*告白:1882年に完成した作品だが、発表されるとすぐさま発売禁止となった。またこの作品を境にトルストイの目は宗教に向けられるようになったが、その宗教活動は厳しく監視されてもいた
晩年:理想と現実の狭間で
最後の長編『復活』(1898~1899年)は、トルストイの晩年の考え方をまとめたものといえるが、いっぽう、その考え方を実現することのむずかしさにも、なやまなければならなかった。
(『学習人物事典』315ページ より)
晩年、トルストイは、農民たちの惨状に心を痛め、地主としての特権や家族を捨てて一農民として生きようと決意し、漂泊の旅にでたが、一寒村の駅で行き倒れて死んだ。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
そうしたなやみのはてに、1910年10月、家庭も財産もすてて放浪の旅に出たが、やがて肺炎にかかって、11月7日にいなかの鉄道の駅*でその人生をおえた。
(『学習人物事典』315ページ より)
*いなかの鉄道の駅:リャザン・ウラル鉄道の小さな駅である『アスターポボ』のこと。現在では『トルストイ駅』と改名され、『トルストイ博物館』となっている
影響:ロランやガンディーら
トルストイの思想は、ガンディーやロマン=ロラン、日本の白樺派同人など、世界の多くの人々に大きな影響を与えた。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
大地に汗して働く農民にひかれた彼は、農耕生活を大切にし、国家・軍隊や私有財産制を否定し、キリスト教の隣人愛の実践と非暴力主義による人類救済を提唱した。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
逸話:『戦争と平和』で得た収入の使い道
彼は「『戦争と平和』から得られた収入は、自分に何かを求めてやってくる人々のために使いたい」と妻にいい、その収入を家計に用いることを許さなかったと伝えられている。
(『倫理用語集』263ページ トルストイ より)
『イワンの馬鹿』の考察と感想【3つ】
最後は本作:『イワンの馬鹿』にまつわる考察です。
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注:参考文献を元にした情報になりますが、自分個人の考察も含みます。
そのため、あくまで一つの参考として下さいませ。
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<1>「芸術以上の芸術」byロマン・ロラン
まずフランスの作家:ロマン・ロランは、本作:『イワンの馬鹿』を含めたトルストイの作品群を、「芸術以上の芸術」であると称賛したといいます。
さらに文豪レフ・トルストイ(一八二八~一九一〇)は、モラルと芸術性を調和させた「イワンのばか」「人はなんで生きるか」といった民話風の一連の作品を書き、後にロマン・ロランに「芸術以上の芸術」と絶賛された。
(『童話学がわかる』12ページ より)
民話風の創作文学が盛んになっていた当時のロシアにおいて、倫理的な意義も示唆されたトルストイの作品は、ロランにとって”芸術”という言葉だけで表現するには物足りないとの思いがあったのかもしれません。
<2>『”痛烈な社会風刺の武器”になり得る』byシチェドリン
またロシアの風刺作家:ミハイル・サルトィコフ・シチェドリンは、本作:『イワンの馬鹿』を含めた作品ジャンルが、『”痛烈な社会風刺の武器”となり得る』と評しています。
シチェドリン(一八二六~八九)は一連の童話で、このジャンルが痛烈な社会風刺の武器になりうることを示した。
(『童話学がわかる』12ページ より)
後の3つ目の考察でもお伝えしていますが、自分もこの『イワンの馬鹿』が、見方によっては風刺的な側面を持つ童話であることは間違いないと考えます。
そしてそのことは風刺作家であったシチェドリンも同様であると考えていたようで、それも”痛烈な”社会風刺であるとのことです。
(とはいえ、時代背景もあるかもしれませんが、自分は痛烈であるとまでは思いませんでしたが)
<3>『正直者が馬鹿を見る』とは言い切れない?
世の中には『正直者が馬鹿を見る』という言葉があります。
そしてこの童話:『イワンの馬鹿』の世界では、その言葉が必ずしも事実ではないことが描かれていました。
まず童話に登場する主人公イワンは、他の誰よりも正直者な”馬鹿”です。
イワンはどこまでも目先の利益に無欲で、どんなに不遇な目に遭っても気が削がされたりはしません。
そしてそんなイワンの元には、最終的に大きな幸運がもたらされます。
もちろん現実の世界では、正直者や勤勉な人が必ずしも報われるわけではありません。
ですが、少なくともこの童話に限っては、イワンのような正直者な馬鹿が報われる世界観となっていました。
この童話の作者であるトルストイは、平和を理想に掲げていました。
よってこの童話の世界観は、そんなトルストイが理想とする世界が一部体現されていたと見ることもできるのかもしれません。
『イワンの馬鹿』の考察とあらすじ内容まとめ
童話:『イワンの馬鹿』は、正直者で無欲の馬鹿:イワンが、悪い悪魔をその無垢さによって退治します。
そんなイワンに幸運が訪れるよう描かれたこの童話は、どこか正直者でいることの貴さが印象付けられているかのようにも感じました。