【『思考実験』一覧】怖い9例&面白い10例を超厳選【クイズ形式でわかるパラドックスの世界】
思考実験:『スワンプマン(沼男)*』についてまとめました。
*以下より『スワンプマン』の表記で統一させていただくこととします
下記の内容が順にわかるようになっています。
- 誕生の背景
- 問題のシナリオ
- 考え方とその考察
- 経験論的な理論による考察
- 参考文献
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スワンプマン(沼男)の思考実験とは?誕生の背景とその中身
それでは、スワンプマンの思考実験が生まれた背景から、その内容を順にご紹介させていただきます。
哲学者:ドナルド・デイビットソンが考案
まずスワンプマンの思考実験は、アメリカの哲学者:ドナルド・デイビットソンが考案したとされています。
デイビットソンは、自身の論文『自分自身の心を知ること』の中で、この思考実験を紹介したようです。
それ以後、スワンプマンの思考実験は、“人間の同一性を問う題材”として広く知られていくこととなります。
内容は次のようなものです。
ーーーーー
[問題文]
ここに、ある森の中をさまよう一人の男がいました。
男は今にも力尽きそうな中、とある沼地に辿り着きます。
ですが、その瞬間、男は突然の雷に打たれます。
男は沼地に沈んでいき、その生涯を終えることとなりました…。
そんなとき、男と入れ替わるような形で、沼地から別の男が姿を現します。
男の名はスワンプマン(沼男)。
どういうわけか、スワンプマンの姿は雷に打たれた男とそっくりです。
まるで見分けがつきません。
しかもスワンプマンに宿っている魂は、確かに沼地に沈んだ男のものです。
つまり男の魂はスワンプマンに乗り移っているようでした。
スワンプマンは、男の過去の記憶も完全な形で受け継いでいます。
今となっては、スワンプマンは沼地を抜け出し、そのかつての男であるかのように振る舞っているようです。
誰も彼がかつての男ではなく、スワンプマンであることには気づいていません…。
おそらくこれからも気づくことはないでしょう…。
では、問題です。
「スワンプマンは男と同一人物だといえるのでしょうか?」
繰り返す通り、スワンプマンは男とそっくりの姿をしており、持っている記憶も男のそれとまったく同じです。
以上がスワンプマンの思考実験で問われることです。
ーーーーー
スワンプマン(沼男)の思考実験【考え得る2つの答えと見分け方の考察】
多くの思考実験がそうであるように、スワンプマンの思考実験にも絶対の答えは存在しません。
そこでここでは、この思考実験で考え得る答えとその見分け方を考察することとさせていただきます。
<答え1>「同一人物である」という考え
まずは「スワンプマンと男は同一人物である」という考えです。
この考えをする方には、もしかしたら次のような理由が思い浮かんでいるのかもしれません。
[1の理由]実生活を送るうえでの支障が何一つないから
“スワンプマンが実生活を送るうえでの支障が何一つないから“との理由です。
繰り返す通り、スワンプマンの姿と記憶は男のそれとまったく同じ。
周囲の人も、そんなスワンプマンのことをまったく疑っていません。
そのため、以上のことから「スワンプマンと男は同一人物であると考えられる」という意見になります。
現に、実生活を送るうえで、支障となることは何もない。
役場で戸籍謄本を取得することもできるし、空港職員に一切怪しまれることなく、海外旅行に出かけることもできるだろう。
(『よくわかる思考実験』16ページ より)
<答え2>「同一人物ではない」という考え
もう一つは、「スワンプマンと男は同一人物ではない」という考えです。
この考えをする方には、もしかしたら次のような理由が思い浮かんでいるのかもしれません。
[2の理由]スワンプマンの記憶は自身が”経験”したものではないから
“スワンプマンが持っている記憶は、スワンプマン自身が”経験”したものではないから“との理由です。
『よくわかる思考実験』の著者である高坂庵行さんは、次のように考察なされています。
死んだ男の両親に会い、小さな頃の思い出話に興じることもできる。
だがしかし、その思い出話は、スワンプマン自身が体験したことではない。
あくまで死んだ男の記憶を引き継ぎ、あたかも本人であるかのように話しているだけなのである。
(中略)
こう考えていくと、実際に経験したかどうかということが判断の分かれ道になりそうだ。
(『よくわかる思考実験』16、17ページ より)
なお、自分の個人的な考えとしては、この”経験”の有無を考えることこそが、最もスワンプマンの思考実験の核心に近い気がしています。
そのことについては次にまとめました。
スワンプマン(沼男)を『経験論』的な理論から見分ける
さきほど、『よくわかる思考実験』の著者である高坂庵行さんは、スワンプマンが元の人と同一人物であるかどうかには、『経験』が一つのカギになると考察なされていました。
こう考えていくと、実際に経験したかどうかということが判断の分かれ道になりそうだ。
(『よくわかる思考実験』16、17ページ より)
そこで参考になるのが、哲学の世界で古くから提唱されている、『経験論』の考えです。
哲学者:ベーコンが提唱した『経験論』
まず前提として、『経験論』というのは、イギリスの哲学者:フランシス・ベーコンが提唱した次のような考えになります。
人間の知識は、感覚的な経験から生まれるという考え方。
知識の真理性の根拠を経験に求める立場で、理性的な推理を重んじる合理論に対立する。
(『倫理用語集』200ページ 経験論 より)
つまり知識は経験によってのみ獲得できるという考えこそが、この『経験論』の考えです。
ベーコンは知識を含めたすべてのことが、この経験により生まれるという絶対的な考えを持っていました。
アリストテレスやロックも”経験”を重視
さらに哲学の世界では、ベーコンのような経験の意義を支持していた哲学者は少なくありません。
たとえば、万学の祖と評される古代ギリシャの哲学者:アリステレスも、経験を重視していたことで知られています。
(前略)アリストテレスは、現実を実際に経験することから知識が生まれると説いた。
(『倫理用語集』28、29ページ 認識論 より)
イギリスの哲学者:ジョン・ロックも、『タブラ・ラサ(白紙)』という言葉を残していた通り、経験が何よりも重要であるとの考えを持っていました。
経験によって外から知識や観念を与えられる前は、生まれつきの人間の心は、何も書かれていない白紙の状態であるというロックの言葉。
タブラ=ラサとは、ラテン語で何も書かれていない板・白紙を意味する。
ロックは、一切の知識の源泉を経験に求める経験論の立場から、デカルトの説いた神や実体についての生得観念を否定し、感覚と反省という2つの経験の作用によって、心に様々な観念が刻まれていくと説いた。
(『倫理用語集』209ページ 白紙(タブラ=ラサ) より)
ロックは、経験論の立場から生得観念を否定し、人間の心は「白い板」(タブラ=ラサ)、つまり白紙であると説いた。
(『倫理用語集』204ページ 生得観念 より)
『経験論的な理論から考察すると、スワンプマンは元の人と完全に同一人物であるとはいえない』
そして仮に以上のような経験論はじめ経験を重要視する考えを前提にしてスワンプマンを考察すると、スワンプマンが持つ知識は、本当の意味で知識であるとはいえない…ということがいえます。
なぜなら、繰り返す通り、スワンプマンが持つ知識は、スワンプマン自身が”経験”によって獲得したものではないからです。
スワンプマンは確かに元の人と同じ知識を持ち合わせてはいるものの、それは決して自らが努力をしたり、葛藤をしたり、挫折をするなどの”経験”という過程を通じて獲得したものではありません。
よって以上の経験論はじめ経験を重要視する考えを前提とするなら、元の人とスワンプマンは、やはり完全に同一人物とはいえません。
見分けるコツは、経験論の対極にある『合理論』にある
しかし、なかには次のような疑問を持たれた方がいるかもしれません。
「経験によって獲得したかどうかに関わらず、同じ知識であることに変わりはないのでは?」
「そもそもその知識が経験によって獲得したものなのかを見分ける方法はあるのか?」
これはとても難しい問題です。
自分が知る限り、「その経験は本物か?」を高い確度で証明する方法はないように思います。
(前略)長年の間、多くの哲学者たちが認識してきたように、私自身の経験が本当に本物であると論理的に証明する方法はない。
私の考えーー私は個別の体に個別の心を持っているという認識ーーは、まったくのでたらめだということもありうる。
同様に、あなたにも個別の心があって、その心に独立した考えがあるのだと論理的に証明することはできない。
(『オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題「あなたは自分を利口だと思いますか?」』260ページ より)
とはいえ、ここでは一つ身近な例を出して考察してみました。
まずは下記のような方々が実際にいることを仮定します。
・料理の経験が一切ない料理研究家
・スポーツの経験が一切ない監督、コーチ
なお、上記の方々は経験こそありませんが、”知識は豊富であるとも仮定”するものとします。
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注:念のため注意点としてお伝えしますが、自分は上記のような方々のことを悪く言うつもりはまったくありません。
あくまで例として出したまでです。
そしてこれらの事例が現実問題として成り立つのかどうかもここでは別問題とさせて下さい。
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では、もしさきほどの例のような方々に、自分がそのことを教えてもらうとしたらどうか。
つまり『料理の経験が一切ない料理研究家に、料理を教えてもらう』、または『スポーツの経験が一切ない監督やコーチに、そのスポーツを教えてもらう』といった具合です。
おそらくさきほどの例のような方々は、知識は豊富であるため、経験はなくとも合理的な指導はできるかもしれません。
実際、哲学の世界でも、経験論の対極に位置する考えに、『合理論』という考えがあります。
確実な知識の源泉を、理性による思考に求める考え方。
明証的な原理から、論理的な推理によって確実な知識を導きだす演繹法を、真理探究の方法とする。
理性の明証性を拠り所に知識を導く合理論は、経験から知識を帰納する経験論と対立する。
(『倫理用語集』202ページ 合理論 より)
合理的なだけでは人は動かない?
ですが、いくらさきほどの例のような方々が、経験のない知識を合理的に説明できたとしても、その指導に十分な説得力を感じられない方もいる気がします。
自分の個人的な意見としては、経験のない知識を誰かに共有するときというのは、どこか無機質な言い回しになる側面もある気がしています。
それはかつて自分で経験したことを、知識の共有相手に重ね合わせたりして、その相手に”共感”することができない影響もあるからかもしれません。
とはいえ、人にはたとえ同じ知識であったとしても、経験によって得られた知識に価値があると感じられる心理がどこかにあるような気がしています。
もちろんこのことは自分の個人的な考えに過ぎませんが、もしこのことがまったく間違っていないとしたら、やはりスワンプマンと元の人とは同一人物であるとはいえなさそうです。
皆さんはどう考えるでしょうか。
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ちなみに自分は決して経験至上主義者ではありません。経験がすべてだとは考えていません。
哲学の世界でも、『経験論』への賛否は様々。
ですが、少なくとも自分はその人が歩んできた経験が、結果としてその人の人格を形成している側面は少なからずあるとは考えます。
つまり経験はその人をその人たらしめる人間的な営みの一つであると考えているため、自分はスワンプマンと元の人はやはり違うのではないか…という考えです。
そう考えると、『かわいい子には旅をさせよ*』というのは、『経験論』的にもよく出来た言葉なのかもしれません。(雑な終わり方)
*厳しい経験によって成長するというたとえ
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「『スワンプマン(沼男)』の思考実験とは?」わかりやすく答えの見分け方まで考察【経験論的理論】まとめ
思考実験に同一性を問う題材は数多く、スワンプマンもそのなかの一つです。
とはいえ、スワンプマンはSFっぽさが漂う思考実験だと個人的には感じるので、比較的取っつきやすい内容かと思います。
それでは失礼します。
肉体と精神は通常、別々に考えることは不可能だ。
なぜなら、同時に存在するものだから。
だが、これらの思考実験ではどうやっても別々に考えざるを得ない。
そして、答えを1つに絞り込むことは不可能に近い。
さて、あなたの答えは。
(『よくわかる思考実験』21ページ より)
参考文献
このページをつくるにあたり、大いに参考にさせていただきました。
ありがとうございました。
・Oleg Seletsky, Tiger Huang, William Henderson-Frost「The Shakespeare Authorship Question」
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