【『名作』一覧】童話や文学、戯曲など【海外と日本の有名作品集】
名作:『ヴェニスの商人』のご紹介です。
あらすじは読み聞かせができるようにまとめています。参考にして下さいませ。
- 『ヴェニスの商人』のあらすじ要約
- 作者紹介
- 参考文献
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『ヴェニスの商人』あらすじ内容の簡単な要約
あらすじと作者紹介です。
物語:強欲な人間に下された結末
ヴェニス*に住むバサーニオーは、親の資産を受け継いだ美しい令嬢:ポーシャに結婚を申し込みたいと思っていました。
ですが、それには色々とお金がかかります。
しかもバサーニオーの手元には、ほとんどお金はありませんでした。
そこで困った彼は、商人で友人のアントーニオーにお金を借りようと考えます。
しかし、そんなアントーニオーの財産のほとんどは商売に使われていたため、航海中の船が戻ってくるまでは、バサーニオーに貸すほどのお金はありませんでした。
そこでアントーニオーは、自分が保証人となり、金貸しのシャイロックからお金を借りることをバサーニオーに提案します。
シャイロックはとても欲張りなお金貸しでした。
しかもアントニオーとは険悪な仲です。
しかし、それでもシャイロックは、借金の申し出を受け入れました。
そのためにシャイロックは、とんでもない条件を突きつけたからです。
「約束の日までに金を返せなければ、アントーニオーの肉1ポンド*を切り取る」
とはいえ、アントーニオーは「(自分の船は必ず帰ってくるから問題ないな…)」と考えたので、このとんでもない条件を受け入れてしまいました。
アントーニオーは証文*にサインをしたのです。
こうしてお金を得たバサーニオーは、恋のライバルたちを退け、ポーシャと婚約することができました。
しかし、そのとき、思わぬ知らせが届きます。
「アントーニオーの船が難破*して戻ってこないため、シャイロックからの借金が払えなくなった…」
それを知ったシャイロックは、証文通り、アントーニオーの肉を切り取ることを求め、裁判を起こします。
裁判官はそんなシャイロックを説得しようとはしたものの、その度にシャイロックは次のように主張して譲りませんでした。
「『肉1ポンドを切り取る』と証文に書いてあるじゃないか。この通りにしなければ気が済まない」
結局、裁判官は仕方なく、アントーニオーの肉を切り取ることを認める判決を下しました。
しかし、裁判官はシャイロックに次のような条件をつけることにより、シャイロックを追い詰めました。
「証文には『肉』としか書かれていない。だから、『血』は渡せない。そのため、もし1滴でも血を流したら、財産は没収する」
実はこの裁判官は、ポーシャが変装した姿だったのでした。
(おわり)
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[用語の説明]
*ヴェニス:イタリア北東部に位置する水の都ヴェネチアのこと
*1ポンド:約454g
*証文:証拠となる文書のこと
*難破:嵐などで船が壊れ、動けなくなってしまうこと
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作者:ウィリアム・シェイクスピア
作者:ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616年)
17世紀はじめに活やくした世界演劇史上最大のイギリスの劇作家
(『学習人物事典』206ページ より)
(前略)人間の性格をほりさげてさまざまな人物を創造し、世界の演劇史上に大きな足跡をのこした。
(『学習人物事典』206ページ より)
イギリス出身の劇作家。詩人でもありました。
当初は俳優として活動していましたが、後に劇作家として活躍することになります。
『四大悲劇』と呼ばれる『ハムレット』と『オセロ』、『マクベス』、『リア王』の存在は、世界的傑作として有名です。
本作:『ヴェニスの商人』は、1596~1597年頃に発表されたと推定されています。
その他の代表作には『ロミオとジュリエット』や『ジュリアス・シーザー』など多数。
略歴
生い立ち
シェイクスピアは1564年にイングランド中部のストラトフォード・オン・エイボンで生まれています。
父親は裕福な商人で、町長にもなったことがあるといわれている。
母親もゆたかな農家のむすめだったので、シェークスピアは少年時代には、かなりめぐまれた生活をしていたものと思われる。
町のグラマー=スクール(日本の中学校にあたる)に入り、かなりきびしいつめこみ主義の教育を受けたが、13歳のときに父親がなくなったため、くらしが苦しくなり、そのために上の学校に進学することができなくなった。
(『学習人物事典』206ページ より)
18歳となった1582年には、シェイクスピアは年上のアン・ハサウェイと結婚。3人の子供をもうけています。
しかし、やがてシェイクスピアは妻子を故郷に残したまま、ロンドンへと出ていくこととなりました。
成功
ロンドンに出て何をしていたのか、はっきりわかっていないが、1592年には劇作家として活やくしていたという事実が明らかになっているので、おそらく劇場にやとわれて、まず俳優となり、それから劇作家にかわったのだろうと考えられている。
(『学習人物事典』206ページ より)
そしてシェイクスピアはそれ以後のおよそ20年で、37編の戯曲と数編の長詩、1609年には叙情的な名作を集めた『ソネット集*』を書いています。
*ソネット集:ソネット形式の詩を集めたもの。ソネットとは、西洋の詩の形式の一つであり、14行の詩句から成り立っている。イギリスのものは4・4・4・2という行分けになる
作風の変遷
シェークスピアの37編の戯曲がいつ書かれたものか、はっきりしない。
しかし、ふつうには4つの時期に分けて考えられている。
(『学習人物事典』206ページ より)
第1期(1590~1595年)
第1期(1590~1595年)は習作時代で、未熟だが、わかわかしい情熱にあふれ、喜劇・悲劇など、いろいろな分野に手をそめている。
代表作に『リチャード3世*』『ロミオとジュリエット』がある。
(『学習人物事典』206、207ページ より)
*リチャード3世:1593年に初演されたシェイクスピアの悲劇。薔薇戦争の末期、残忍な方法で甥のエドワード5世から王位を奪ったヨーク家のリチャード3世が描かれた作品
第2期(1596~1600年)
第2期(1596~1600年)は『真夏の夜の夢』『ベニスの商人』など、悲劇のけっ作がつぎつぎと生まれ、シェークスピアの人間を見る目がいちだんと深まった時期でもある。
また悲劇『ジュリアス=シーザー』もこの時期の作品である。
(『学習人物事典』207ページ より)
第3期(1601~1609年)
つづく第3期(1601~1609年)は悲劇の時代といわれ、『ハムレット』『オセロ』『リア王』『マクベス』の4大悲劇をはじめ、多くの悲劇を書いているが、このんで悲劇を書き、また喜劇を書いても、初期に見られた明るさや陽気さがすっかりかげをひそめてしまった原因はわかっていない。
(『学習人物事典』207ページ より)
第4期(1610~1611年)
第4期(1610~1611)はロマンス劇*の時代といわれ、晩年のしずかな心境が『冬物語』や『あらし』などの作品によくあらわれている。
(『学習人物事典』207ページ より)
*ロマンス劇:ロマンス物語に取材した戯曲のこと。ロマンス物語とは、様々な出来事の末、ハッピーエンドで終わるような、空想的かつのどかな内容を持ったもの
その他の成功
1594年以後は<内大臣一座>という劇団の座つき作者兼俳優として成功し、1596年には故郷に大きな屋しきを買い入れるほど、経済的にもめぐまれた。
内大臣一座が<グローブ座>という劇場を建設すると、そこをホームグラウンドとして活やく、劇団の幹部となり、グローブ座の株主として、かなりの財産をつくった。
(『学習人物事典』206ページ より)
「シェイクスピアとは何者なのか?」
なお、シェイクスピアの人物像をめぐっては、少なくとも18世紀頃から、とある議論が存在しています。
それは、「シェイクスピアとは一体何者なのか?」といった議論です。
このような議論が存在する理由はいくつもあります。
たとえば、シェイクスピアの人物像を特定する資料が少ないことや、シェイクスピアが平民の生まれだったとは思えないほど、当時の貴族文化が鮮明に反映された作品があることです。
『シェイクスピア=ベーコン説』の真相
そしてそんな疑問への答えとして、なかでも有力視されていた説が、イギリスの哲学者:フランシス・ベーコンとの『シェイクスピア=ベーコン説』でした。
イギリスの哲学者・政治家で、イギリス経験論の祖とされる。
名門の家に生まれ、12歳でケンブリッジ大学のトリニティ=カレッジに入学し、さらにグレイズ=イン法学院に学んで、弁護士の資格をとった。
23歳で国会議員に選ばれ、政治家・弁護士として活動を続け、52歳で司法長官になり、さらに最高の地位である大法官になった。
(『倫理用語集』200ページ ベーコンの生涯と思想 1561~1626 より)
ベーコンはシェイクスピアとほぼ同じ時代を生き、名門の家に生まれた教養のある人物としても知られていました。
よってそのような人物的背景のあるベーコンであれば、貴族文化を作品へと鮮明に反映させることはもちろん、シェイクスピア作品に見られる美しく教養ある戯曲をつくれたことへの説明も十分につくというわけです。
しかし、この説は後に初期の計量文献学*において否定されました。
両者が書いた文体には統計的に有意な違いは見られず、今では両者はまったくの別人であると結論付けられているようです。
*計量文献学:文章中の単語の数や種類、長さなどから、その文章の特徴を理解しようとする研究のこと
有識者たちからのシェイクスピア作品に対する批評
児童文学研究家:金原瑞人さん
児童文学研究家の金原瑞人さんは、シェイクスピア作の文学への社会的評価は、ロマン派の時代になってからより一層高まった傾向にあったことを、以下のようにご指摘されています。
文学的価値観などというものは、すべてがこの「好み」に左右されているわけで、たとえばシェークスピアも十八世紀から十九世紀にかけての古典主義の時代にはかなり不遇であったのが、ロマン派の時代になって一躍注目されるようになったのは有名な話だ。
(『童話学がわかる』144ページ より)
そしてこのような時代の変遷に伴うシェイクスピア作の文学への社会評価の変遷は、金原さんは今後も起こり得ることを次のようにたとえています。
現在こわもてしているシェークスピアも将来、もしかしたら品性下劣で下世話な劇作家として一蹴される時代がこないともかぎらない。
(『童話学がわかる』144ページ より)
『ヴェニスの商人』あらすじ内容を簡単に要約まとめ
シェイクスピアの喜劇:『ヴェニスの商人』は、人間の心理が生々しくも細かに描写されていました。
絶体絶命の場面でポーシャが見せた切り返しなど、盛り上がりとなる大きな見所も随所に用意されており、見た人の心理が揺さぶられる内容だったようにも思います。
参考文献
・Oleg Seletsky, Tiger Huang, William Henderson-Frost「The Shakespeare Authorship Question」