公文式の創設者。
公文式学習の普及にも尽力し、公文を教育産業として確立した人物でもある。
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公文公が残した功績
公文式創設
1958年に公文を創設。
きっかけは小学2年生だった長男:毅(たけし)の出来の悪い算数の答案用紙を見つけた妻:禎子(ていこ)が、公に『息子に勉強を教えてあげること』を言われたことだった。
【公文毅(くもんたけし)】の死因や息子、孫の存在は?【公文式学習の第一号で公文式創設者の息子】
その過程で公は、学校の教科書や市販のドリルが合理的に作られていないことを認識し、公自らが問題プリントを自作することになる。
これが公文式教材プリントの原点となる。
公文氏の著者や自伝には、かならずといっていいほどに、『方程式』を中学で教わったときにくやしい思いをした、なぜ、これをもっと早く教えてくれなかったのかーーと憤ったという話がでてくる。
これが、公文式の創設につながっていくのだが、その根底にあるのは、『効率よく、無理なく、無駄なく』といった一種の合理主義である。
(『危ない公文式早期教育』145ページより)
ちなみに公文が創設されて初期の頃は、教材の半数近くは手書きをプリントしたものだったが、それは元々、公が作っていた自作プリントが手書きであったことに由来している。
公文を教育産業の一つとして確立
公文を創設したことに留まらず、公は公文を教育産業の一つとなるまでに生涯をかけて尽力した。
自著の出版やメディア出演にも精力的で、自らも広告塔としての役割を担った。
なかでも1974年に出版した自著『公文式算数の秘密』は30万部を超えるベストセラーになり、公文に入会する生徒が爆発的に増える大きな後押しとなった。
一九五八年に大阪で始まった公文式は、七〇年代後半から八〇年代初期にかけて、ビッグ・バンともいえる急激な発展を遂げる。
(『危ない公文式早期教育』130ページより)
公がこの世を去る1990年代半ばには、国内生徒数が165万人、海外生徒数が27万人となり、公文は日本のみならず世界的な教育産業となった。
公文教育研究会は、国内生徒数百六十五万人、海外生徒数二十七万人の規模(公文教育研究会・事務局調べ=九三年春・現在)をもつ世界最大の民間教育産業であるという。
(『危ない公文式早期教育』129ページより)
※国内生徒数とは、のべの生徒数のことであり、一人の生徒が算数と英語を学んでいたら、国内生徒数は2人とカウントされる
公文公の経歴とその生涯
1913年:高知県に生まれる
1913年(大正3年):高知県に生まれる。
父親は元々、小学校の教師だったが、辞めてからは造り酒屋を営んでいた。
家庭は裕福とはいえず、税金と米代に日々追われていたという。
1926年:進学校に入学
1926年:四国の名門だった私立土佐中学校に入学。
当時の中学校は義務教育ではなかったが、友達から中学校くらいは行ったほうが良いと助言されて進学を決める。
ちなみに当時の土佐中学校の教育方針は、公文の教育理念ともなっている『自学自習』と、『先取り学習』だった。
特に数学などの主要教科は実学年より1学年以上先取りさせる方針だったこともあり、公自身も主体的に先取りする学習法の効果を身を持って実感した。
後に公は自伝のなかで、このときの経験が公文式学習の作成に活かされたことを明かしている。
1936年:教師生活がスタート
1936年:大学卒業後、中学教師として働き始める。
その後、33年間に渡って、中学および高校教師として働くことになる。
1937年:兵役を経験
1937年:満州にて兵役を経験。
前線ではなく、得意の数学を活かした帳簿付けを担当。
1940年:兵役解除
1940年:2年10か月もの兵役生活が終わりを迎える。
なお、兵役解除後は、戦時中ということもあり、各地の兵学校を転々としながら主に数学を教える仕事を続けた。
1945年:結婚
1945年:戦時中、お見合いを通じて出会った妻:禎子(ていこ)と結婚。3月のことだった。
1946年:長男が誕生
1946年:長男である毅(たけし)が誕生。
毅は公文式誕生のきっかけとなる人物であり、公文式学習の生徒第一号でもある。
『公文式』とは、公文公会長が息子のためにつくった家庭学習用の教材がもとになり、進度別の個人学習を基本として始まった。
(『危ない公文式早期教育』129、130ページより)
また毅は、後に公文教育研究会で代表取締役社長を務めることにもなる。
【公文毅(くもんたけし)】の死因や息子、孫の存在は?【公文式学習の第一号で公文式創設者の息子】
1956年:自宅で算数教室を開講
息子:毅が小学2年生のときに施した公独自の学習法が実を結び、毅の学校での学力はみるみる向上。小学生のうちには高校数学をほぼ終えるまでになった。
するとその評判は瞬く間に広がり、自身が生み出した学習法を息子だけにやらせるのはもったいないと考えた公は、1956年:自宅の2階を開放し、無償で週3回の算数教室を開講した。
教室は瞬く間に反響を呼び、生徒は順調に増え続ける。
その後は公の教え子であり、元小学校教師の女性に教材を渡すなどし、教室の規模を2つ、3つと拡大していった。
1958年:公文数学研究会を設立
1958年:公文数学研究会(当時の名称)を設立。
高知高校の同級生だった会社経営者からの助言により、公文式算数教室の事業化を決めた。
1968年:公文に専念するため、教師を引退
1968年:教室数や生徒数が順調に伸びていた公文に専念するため、33年間におよぶ教師生活にピリオドを打つ。
1974年:自著『公文式算数の秘密』を出版
1974年:自著『公文式算数の秘密』を出版。
30万部を超えるベストセラーとなり、公文の成長をさらに加速させる要因となった。
一九五八年に大阪で始まった公文式は、七〇年代後半から八〇年代初期にかけて、ビッグ・バンともいえる急激な発展を遂げる。
(『危ない公文式早期教育』130ページより)
ちなみに公は自著を出版したのは単なる宣伝というだけでなく、『『公文式は学校でやることよりも、将来、大学進学をラクにするためのもの』という考えが、親たちに伝わっていないことに葛藤していたためだった』と明かしている。
1995年:永眠
1995年:死去。
公文公の人物像
教育への高い関心
公の教育への関心の高さは随一だった。
戦後は教師として数多くの中学や高校で指導を続けるなか、生徒を自宅へ招待して勉強を教えることもあった。
ときには大学生の知り合いに家庭教師をお願いするなどして、生徒の学力向上に努めたという。
こうした姿勢は公文が創設された1960年代以降も続き、公は児童養護施設をはじめとした14の施設で、恵まれない子供たちへの無料の学習指導を行うこともあった。
公の死後、公文は現在でも児童福祉施設や障碍者のための就労支援施設、フリースクール、医療機関などで公文式指導の提供を行っているが、それは公の意思を引き継いでいるという見方もできる。
また公文においても公は情熱を捧げ続け、生前は書斎から全国の公文式指導者たちに電話をかけ、成績上位者たちの進度を逐一確認したり、アドバイスを送るなどをしていたという。
自著の出版やメディアへの出演に積極的
公は生前、公文式経営陣のトップという立場でありながら、自ら表舞台に出ることで、公文の広告塔の役割も担っていた。
特に自著の出版には力を入れており、なかにはベストセラーになった書籍や、自伝もある。
一部の関係者から公が『カリスマ』と評されていたのは、こうした背景も関係しているとみられる。
自他ともに認める『ごくどう者』
公は自伝のなかで、自身のことを『ごくどう者』と評している。
※『ごくどう者』とは、公の出身である土佐の言葉で『ダラダラと何もしない不精者』といった意味
特に幼い頃は母親からよく『ごくどう者』と言われて叱られたという。
ただ一方で公自身は、『ごくどうでいける者がいちばん利口じゃないか』という考えを持っており、その考えは、『最小の努力で最大の効果を上げる』ことを目指した公文式学習の礎となっている。
公文公の名言
悪いのは子どもではない
教える側が子供の学力に見合った『ちょうど』の教材を与えることができたなら、その子供は必ず伸びるという考えを表した言葉。
公が出版した自著のタイトルにもなっているフレーズである。
『こんなものだ』はいつもなく、『もっといいもの』はいつもある
『これで良しと思ったらそのさきはない』という、常に未完成であることを自覚し、向上に努める姿勢を説いた言葉。
絶えず教材改訂を続ける公文の姿勢にも通じる言葉である。
ちょうどの学習
大変ではあるが、やれないこともないくらいのストレスをかけることで、学習の効果を最大化させることを狙った学習法のこと。公文式学習にも活かされている。ちなみに、ぬるま湯に浸かるという意味ではない。
やってみよう。やってみなければわからない
子供には無限の可能性があるので、何事もあきらめずやってみることが大切であることを説いた言葉。
『やってみよう』というフレーズは、公が執筆した自伝のタイトルにもなっている。
子どもから学ぶ
子供を伸ばすヒントは常に子供にあるという意味。
指導者のあるべき姿勢を説いた、指導者へ向けた言葉。
50年前の中1と今の中1の学力が同じなのは教師たちの怠慢だ
指導者が絶えず学び続けることの大切さを説いた言葉。
【批判】公文公に向けられた批判
早期教育への批判
公は、輝かしい功績や数多くの名言を残した一方で、批判の声が寄せられることも少なくなかった。
なかでも公文を利用した早期英才教育についての主張は大きな賛否を巻き起こした。
公は自著やメディアを通して早期教育の効果を盛んに主張しており、『公文幼児教育は世界一だ』と言い切ったこともあるという。教育ジャーナリストの保坂展人はそれに対して真っ向から異を唱える。
発展途上・試行錯誤の幼児指導を「世界一」とは厚顔無恥もはなはだしい。
(『危ない公文式早期教育』157ページより)
さらに公は胎教(胎内教育)の効果についても度々主張。
『このごろの子どもは泣かないですよ』と言い、知的発展を遂げた子供の変化を主張することもあった。これには保坂は愕然としたという。同じく教育ジャーナリストのおおた としまさも同じ意見を口にする。
私が保坂氏の立場であったとしても同様に愕然としたことだろう。
博識であり、歩くビッグデータ解析マシンのような頭脳をもつはずの公文公という偉人が語るには迂闊なほどに断定的な価値観であるし、その教育的視野には大きな死角があることがうかがえるのである。
(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』187ページより)
競争心を過剰に煽ることへの批判
学習が進んだ順に生徒の名前を進度一覧表に実名で記載し、トップになった子供を祭り上げることで、子供や親の競争心を過剰に煽る公のやり方についても、批判は少なくなかった。
※当時の進度一覧表は実名での記載だった
※現在は個人情報保護の意味から実名表記ではなくなっている
教育ジャーナリストのおおた としまさは自著のなかで、公に対するある種の違和感を感じたと語っている。
しかし計算力というごく限られた能力だけに注目し、そのごく限られた分野において速く進む子ほど優秀であるという価値観の上に保護者とその子供たちを立たせ、そこから見える風景を一般化して教育や子育ての理想を語ることへの違和感は、どうしても拭えないのである。
そこにまったく悪気がないことはわかっている。公文公の目線の先は常に子供を向いており、「子供に損をさせることはあってはならない」「会社の利益より子供の利益」という信念をもっていたことは当時を知る公文式関係者の数々の証言からもたしかである。
しかし、何が子供にとっての「利益」で、何が子供にとっての「損」なのか、その前提がときどき違うような気がするのだ。
(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』186ページより)
エビデンスが乏しいことへの批判
公は自著などにおける自らの主張の裏付けとして、教育心理学や発達心理学をはじめとしたエビデンスの存在を挙げることが多い。
しかし、肝心のエビデンスはそのほとんどが出典すら明記されていない。
例えあったとしてもサンプル数や研究過程がお粗末なものであったり、公自身が都合の良いサンプルから抽出したものも少なくない。
また個人の経験レベルのエビデンスであっても矛盾が散見される。
例えば、公は自著をはじめとして公文を学べば東大に合格できることを盛んに主張しているが、当の公自身は東大出身ではなく、公文式学習者第一号の息子:毅も東大には進学していないなど。
公文公の算数、英語、国語力
算数は大の得意
幼い頃から勉強が嫌いだった公だが、算数は小学生のときから得意だった。
解くことだけでなく、教えることも好きだったことを自伝のなかで語っている。
中学で方程式を勉強したときの感動についても語っていた。
大学では数学の研究を続けるべきか最後まで悩んだそうだが、最終的には数学教師として働くことを選んだ。その後、33年間に渡って数学教師を続けた。
英語も得意だったが、英会話はできず
英語も得意だったが、あくまで得意だったのは学校英語。
そのため、公は晩年まで英会話ができるようにはならなかった。
英語学習は旧制高校(現在でいう高等教育)に進学してから本格的に始まり、文法や英作文をやらずに英文をどんどん読み進める『多読』の指導を受けた。
その結果、3年生になると英作文も難なくできるようになったため、『多読』が効率の良い英語習得法であることを実感。
このときの経験は、英文読解をひたすら繰り返す公文式英語の原点となっているのかもしれない。
国語は苦手
算数と英語が得意だった一方で、国語は苦手だった。
この理由に公は、自身の家庭が貧乏であったことから本を買ってもらえず、幼少期の読書量が不足した影響だと自己分析している。
このときの経験も、文章読解を重視する公文式国語の教材プリントに活かされているのかもしれない。
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