【公文毅(くもんたけし)】の死因や息子、孫の存在は?【公文式学習の第一号で公文式創設者の息子】

親子の記憶

公文毅(くもん たけし)は長きに渡り、公文教育研究会で代表取締役社長を務めた人物である。

公文式が誕生するきっかけを作った人物であり、公文式学習の生徒第一号でもある。

父は公文式創設者:公文公(くもん とおる)。毅はそんな公の長男にあたる。

公文毅が残した功績

毅が残した功績の一部。

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公文式誕生のきっかけを作った

『公文式』とは、公文公会長が息子のためにつくった家庭学習用の教材がもとになり、進度別の個人学習を基本として始まった。

(『危ない公文式早期教育』129、130ページより)

公文が誕生するきっかけとなったのは、毅が小学2年生だったとき。

毅の母:禎子(ていこ)が夫である公(とおる)に、毅が学校でとった点数の悪い算数のテスト答案を見せ、勉強を教えてあげるように言ったことが始まりだった。

このときのことを公は自著のなかで、毅の勉学面には何ら問題を持っていなかったことを明かしているが、禎子からあまりにも熱心に勉強を教えるよう言われたため、仕方なく教えることになったと語っている。

また公自身が毅に勉強を教える過程のなかで、公は学校の教科書や市販のドリルを使おうとしたが、どれも内容が系統化されていないとして納得できず、自分で問題を自作することにした。

そしてこのとき自作した問題プリントが、公文式教材プリントの原型となる。

公自身も、このときの一連の出来事が、今の公文を生んだきっかけと語っている。

わが子の一枚のテストと、その母親の願いーーそれが、公文式算数・数学の誕生のきっかけとなったのである。

(『新「公文式算数のひみつ」』59ページより)

研究 『公文公(くもんとおる)』の名言や人物像【公文式創設者が残した功績】

ちなみに公文が創設されて初期の頃は教材の半数近くが手書きをプリントしたものだったが、それは公文式教材プリントの原型が手書きであったことの名残でもある。

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公文の社長として活躍

1978年に当時の有限会社公文数学研究会代表取締役社長に就任してから、公文式経営陣のトップとして活躍を続けた。

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公文の教育方針を転換

また教育ジャーナリストの保坂展人(ほさか のぶと)は、毅が残した功績の一つに、1990年代半ばまでに公文が掲げていた早期英才教育からの方針転換を挙げている。

同じく教育ジャーナリストのおおた としまさもそのことについて自著にて言及している。

公文式の生徒の第1号としてその功罪を誰よりも実感しているはずの公文毅が、どんどん前のめりになっていく公文式の早期教育にストップをかけた。このことが何を意味するのかは非常に興味深い。

(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』188ページより)

公文式創設者であり毅の父:公文公は生前、自著などを通して公文による早期英才教育の重要性を事あるごとにアピールしていた。

しかし、その結果、公文の生命線だった小学生の入会希望者が減少し、早期英才教育の効果を疑問視する世間からの度重なる批判も浴びることとなる。

そこで公の死後、公文の原点ともいえる小学生を主なターゲットにする教育方針に戻したのが毅であったと保坂は語っている。

再び教育ジャーナリストのおおた としまさも、当時の公文の教育方針を転換したとされる毅の功績を讃えている。

毅が公文式のトップに立ったのは実質的にたった2年間だったが、その間に毅は、公文式に何か小細工をしたのではないだろうか。父親の宝物のプラモデルをこっそり自分の好きな色に塗り替えてしまったいたずらっ子の息子のように。父親が気付いたら激怒したかもしれない。

しかし、実はそれがファインプレーだった。

父親が発明した尖った教育法に、息子が柔らかい手触りを加えた。

こうして世界中で愛される教育法が完成した……。

(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』205ページより)

公の生前の公文式には、公のややエキセントリックな教育観が全面に出ていた時期があったようだ。

しかし現在の公文式から感じられるやさしさやおおらかさは、毅に由来するもののような気がする。

(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』205ページより)

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公文毅の経歴

毅の経歴について。

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1946年:奈良に生まれる

1946年:奈良で後に公文の創設者となる公文公(くもん とおる)とその妻である禎子(ていこ)との間に長男として生まれる。

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1972年:公文数学研究会に入社

1972年:大学卒業後、野村證券株式会社勤務を経て、当時の有限会社公文数学研究会に入社。

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1974年:福岡事務局初代事務局長に就任

1974年:同研究会・福岡事務局初代事務局長に就任。

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1978年:公文数学研究会代表取締役社長に就任

1978年:有限会社公文数学研究会代表取締役社長に就任。

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1983年:公文教育研究会代表取締役社長に就任

1983年:株式会社公文教育研究会代表取締役社長に就任。理事長も務める。

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公文毅の死因

毅の死因は癌と推定されている。

なお、毅は公文式経営のトップに立ったとき、既に闘病生活を送っていた。

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1997年:永眠

1997年:死去。

毅が亡くなったのは、父である公文式創設者の公が死去してからわずか2年後のこと。

そのため、公文式経営のトップに立ったのも実質2年だったとされる。

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公文毅の人物像

人物像について。

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優しい良き家庭人の顔を持つ常識人

毅の人柄が垣間見える資料は現在ほとんど残されていないが、生前を知っている公文式指導者からは、公との比較の文脈のなかで、『優しいよき家庭人の顔をもつ常識人であるように見える』と語っている。

私たち指導者から見て、毅社長は優しいよき家庭人の顔をもつ常識人であるように見える。

(『危ない公文式早期教育』153ページより)

多趣味な一面

プライベートな面としては、生前の毅には多趣味な一面があったとされている。

毅の部屋にはサックスや登山用品、ヨットやスポーツカーに関する雑誌や写真が置かれていたりと、多趣味であったことがうかがえる。

お酒も好きだったという。飲み交わしたら、きっと楽しい人だったのだろうと、私は勝手に想像し、もうそれができないことを少し残念に感じた。

(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』204ページより)

また毅はこうした自身の多趣味な一面は、公文で学んだことが少なからず活かされたとも語っていたらしい。

毅は、生前よく自分の多趣味を話題にして、「公文式をやっていたおかげでたいていのことは自分で調べて習得できるようになった」と話していたという。それが毅にとっての公文式の成果であったというのだ。

(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』204ページより)

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公文式創設者であり、父でもある公と毅との違い

公文式創設者である父:公と毅には、多くの相違点があった。

学力偏重に留まらない教育観

公文式創設者であり、毅の父でもある公は生前、自著などを通じて早期英才教育の効果や重要性を大々的にアピールしていた。

一方、毅は『くもん子ども研究所』という公文式教材の修了者の将来を研究した報告書にて、学力偏重に留まらない教育観を持っていることを語っていた。

子ども達が知的側面と心身のバランスのとれた人的人格者として成長していくためには、『子育て、子育ち、生活リズム』の三基本条件が満たされることが大切です。

『子育て』とは大人達に守り育てられ教育されること、『子育ち』とは大人の管理から逃れ、子どもの世界を構築し、自由な遊びを通して育ち合うことであり、『生活リズム』とは、生体リズムとりわけ日内リズム(サーカーディアンリズム)に調和した生活リズムを確立することであります。

現代の子どもは、生活リズムが乱れ、子育ちの時間が奪われ、管理・配属され過ぎた子育て偏重になっている傾向があると思われます。

(『危ない公文式早期教育』166ページより)

自著の出版やメディアへの発言はほぼない

また両者は、書籍の出版やメディアへの向き合い方についても異なる対応をとっていた。

公文式創設者であり、毅の父でもある公が自著の出版やメディアを通じた発言に積極的だったのに対し、毅は生前、大衆向けに自身の考えや教育観を発言をすることはなかった。

公文公にとって公文式が自分の子供のような存在なら、公文毅にとって公文式は自分の分身のような存在だろう。

(『なぜ、東大の3人に1人が公文式なのか?』203、204ページより)

息子や孫の存在もほぼ明かされていない

そのため、毅は自身の息子や孫の存在などについてオフィシャルの場で語ることはほとんどなかったとされる。

少なくとも、現在、これらのことがわかる書籍やメディアでの発言などは残っていない。

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公文式創設者であり、父でもある公と毅との関係性

そんな公と毅は生前、対立したところもあったという。

経営方針の対立

教育ジャーナリストの保坂展人(ほさか のぶと)の自著によると、毅と公は公文の経営方針を巡って対立することもあったという。

自著のなかでは、指導者研修の席で毅が『これから『公文スクール』として、駅前教室を展開していく』と話をしたところ、公が『いまの話はナシ!ナシ!』と強く否定する場面があったことが、目撃者から語られている。

また毅は、公文の局員(公文の社員)がもっと指導者の現場を知る機会を持つことをはじめ、現状の改善に積極的だったという。

毅は、公文式の体現であることを宿命づけられていた。しかし公が公文式の成果の代名詞として連呼していた「東大」には入学していない。社会人になって何か特別な業績を残したわけでもなく、父親の会社に入った。

(『なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』204ページより)

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