【公文式の歴史年表】黎明期から新時代まで【1956年~2015年の分岐点】

歴史

公文の歴史と年表の一覧。

なお、公文の全体像については、『【公文式とは何か?】子供の習い事『公文教育研究会』の全容』にて。

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公文式の歴史年表【黎明期】

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1956年:公文の原点となる出来事が起こる

1956年:公文の原点ともいえる出来事が、とある一家で起こる。

学校で数学教師をしていた、後に公文式創設者となる公文公(くもん とおる)の息子である小学2年生の毅(たけし)の出来の悪い算数のテスト用紙が、妻:禎子(ていこ)に見つかった。

そこで禎子は、公に向かって『息子に勉強を教えてあげること』をお願いした。

このときのことを公は自著のなかで、毅の勉学面には何ら問題を持っていなかったことを明かしているが、禎子からあまりにも熱心に勉強を教えるよう言われたため、仕方なく教えることにしたと語っている。

これが公文の原点となる。

わが子の一枚のテストと、その母親の願いーーそれが、公文式算数・数学の誕生のきっかけとなったのである。

(『新「公文式算数のひみつ」』59ページより)

また当初、公は毅に勉強を教えるために学校の教科書や市販のドリルを使おうとしたが、内容が系統化されていないことに納得できず、自分で問題を自作することになる。

そしてこのとき公が自作した問題プリントが、公文式教材プリントの原型となる。

『公文式』とは、公文公会長が息子のためにつくった家庭学習用の教材がもとになり、進度別の個人学習を基本として始まった。

(『危ない公文式早期教育』129、130ページより)

公文氏の著者や自伝には、かならずといっていいほどに、『方程式』を中学で教わったときにくやしい思いをした、なぜ、これをもっと早く教えてくれなかったのかーーと憤ったという話がでてくる。

これが、公文式の創設につながっていくのだが、その根底にあるのは、『効率よく、無理なく、無駄なく』といった一種の合理主義である。

(『危ない公文式早期教育』145ページより)

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1956年:算数教室を開く

公が考えた、毎日決まった時間に勉強させながら先取りさせていく勉強法と、教材プリントのおかげもあり、毅の学力はみるみる伸びていった。

公はこの成果を目の当たりにし、自分が息子に施したことを、もっと社会に活かしていきたいと考えるようになったと語っている。

このような学力を高める有効な方法があるのに、自分の息子など限られた子供だけにさせておくのはもったいないのではないか、たとえば同級生などもっとたくさんの子供にさせて、みんなのレベルを上げなければ、社会的にも損になるのではないか……、とぼくや家内は考えました。

(『やってみようー公文公 自伝』196ページより)

そこで同年1956年:公は自宅の2階を開放し、週3回の算数教室を開くことにした。

これが公文式教室の第一歩。

また最初は生徒の学年相当よりも半年ほど下げて勉強させることで、スムーズに学習させる公文式特有の学習法も、このときには既に確立していた。

その後、公の教え子であり、元小学校教員の女性に教材を渡し、同様の指導を自宅でも実施してもらうようにする形で、公文式教室の展開が始まった。

続けざまに2つの教室がオープンし、どこも大反響となる。

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1958年:公文式創立

1958年7月:公文式創立。

このときはまだ『公文式』という言葉は存在していなかったが、公が続けていた算数教室の事業化が始まった。

事業化を決めた背景には、公の高知高校の同級生の会社経営者からの助言もあった。

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1959年:進度一覧表ができる

1959年:生徒がどのレベルの教材プリントまで進んでいるのかをまとめた『進度一覧表』ができる。

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1961年:生徒数2,000人、教室数80を突破

1961年:生徒数が2,000人を突破。教室数は80を超える。

ただ教室の運営費は、創設者である公の高校教師としての給料から支払っていたため、大赤字だった。

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1962年:公文式設立

1962年8月:公文式設立。

このときはじめて『公文式』という言葉が誕生した。

ちなみに『公文式』という名称は、当時広まっていた『水道方式』という数学教育法に対抗する形で名付けられたものである。

生徒数、教室数は順調に拡大し続け、ついには東京にも進出する。

同時期には、公文の経営を公の中学時代の同級生に任せるようにもなる。

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1968年:公文式創設者:公が高校教師を引退し、公文に専念

1968年:公文式創設者である公が、公文に専念するために、33年間もの教師生活にピリオドを打った。

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公文式の歴史年表【成長期】

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1974年:『公文式算数の秘密』が出版される

1974年:公文式創設者:公が自著『公文式算数の秘密』を出版。

30万部を超えるベストセラーとなり、公文の生徒数、教室数が爆発的に増える引き金となる。

一九五八年に大阪で始まった公文式は、七〇年代後半から八〇年代初期にかけて、ビッグ・バンともいえる急激な発展を遂げる。

『危ない公文式早期教育』130ページより)

ちなみに公が自著を出版した理由は単なる宣伝というだけでなく、『公文は学校でやることよりも、将来、大学進学をラクにするためのものである』という公文の理念を、広く世間に伝えるためでもあった。

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1974年:アメリカ(ニューヨーク)にオープン

同じく1974年:アメリカのニューヨークでも公文式教室がオープンする。

当初、公文は海外進出に積極的ではなかったが、ニューヨークに転勤することとなった、日本で子供を公文に通わせていた家族からの要望に応えたことがきっかけとなった。

なお、公文の海外事情の詳細は、『公文式の海外事情『KUMON』についての情報一覧』にて。

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1975年:生徒数11万人、教室数1960を突破

1975年:生徒数が11万人を突破。教室数は1960を超える。

1975年:通信教育がスタート

同じく1975年:通信教育がスタートする。

これは事業の急拡大により、教室オープンが間に合わないところが出てきたことに対応するためでもあった。

1976年:ブラジル(ヴィトーリア)にオープン

1976年:ブラジルのヴィトーリアに公文式教室がオープンする。

現地の日本人コミュニティからの要請に応える形でオープンすることとなった。

1977年:生徒数20万人を突破

1977年:生徒数が20万人を突破。

1979年:生徒数50万人を突破

1979年:生徒数が50万人を突破。その後も生徒数は順調に増え続ける。

1980年:ブラジル(サンパウロ)にオープン

1980年:ブラジルのサンパウロに公文式教室がオープン。

1980年:ドイツ(デュッセルドルフ)にオープン

同じく1980年:ドイツのデュッセルドルフにも公文式教室がオープンする。

1980年:英語がスタート

1980年:公文式英語がスタート。

算数と英語の2教科体制となる。

1981年:国語がスタート

1981年:公文式国語がスタート。

算・英・国の、現在の3教科体制が整う。

1981年:国内学習者数100万人を突破

算・英・国の3教科体制となった1981年:国内学習者数が100万人を突破。

※国内学習者数とは、生徒一人あたりの学習教科数のこと

例)一人の生徒が公文で算数と英語を習っていたら、国内学習者数は2とカウントされる

※英語がスタートしてから、このような数え方となった

1982年:アメリカ(ロサンゼルス)にオープン

1982年:アメリカのロサンゼルスに公文式教室がオープン。

1984年:オーストラリア(シドニー)にオープン

1984年:オーストラリアのシドニーに公文式教室がオープン。

1988年:香港にオープン

1988年:香港に公文式教室がオープン。

日本人駐在員が多い都市を中心にオープンし、その現地の子供をターゲットに教室を拡大させていった。

現地法人の設立も進む。

1990年:スイス公文学園高等部が開校

1990年:スイス公文学園高等部が開校。

スイスのリゾート地レザンにある全寮制高校。

高いレベルの英語教育が受けられる。

公文式教材プリントを使った勉強もあり、高校1年生は数・英・国の3教科必修。高校2年生は2教科選択必修。高校3年生は任意選択となっている。

1993年:公文国際学園が開校

1993年:公文国際学園が開校。中高一貫の共学校。

校則や制服がないなど、生徒の自主性を尊重した公文の教育理念をいくらか踏襲している。

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公文式の歴史年表【過渡期】

1995年:公文式創設者:公文公が死去

1995年:公文式創始者:公文公(くもん とおる)がこの世を去る。

公は、自身が創設した公文を日本が誇る教育産業の一つに確立した。

公文教育研究会は、国内生徒数百六十五万人、海外生徒数二十七万人の規模(公文教育研究会・事務局調べ=九三年春・現在)をもつ世界最大の民間教育産業であるという。

『危ない公文式早期教育』129ページより)

研究 『公文公(くもんとおる)』の名言や人物像【公文式創設者が残した功績】

1997年:長男:毅も死去

1997年:公文式創設者:公文公(くもん とおる)の長男:毅(たけし)も死去。

公が亡くなってから、わずか2年後のことだった。

親子の記憶 【公文毅(くもんたけし)】の死因や息子、孫の存在は?【公文式学習の第一号で公文式創設者の息子】

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公文式の歴史年表【新時代】

2000年:グループ経営体制に移行

2000年:グループ経営体制に移行。

2001年:KUMONのロゴが誕生

2001年:『KUMONのロゴ』が作られる。

公文のロゴ

通称『THINKING FACE』。

ロゴに描かれた顔は、教室で学び、考え、成長する子供たちの顔であり、子供たちのことを考え、成長し続ける指導者や社員たちの顔でもある。

また背景の色は、世界につながる大空や知性、誠実さを表している。

2008年:創立50周年

2008年:公文式創立50周年。

2014年:公文式創設者:公文公の生誕100周年

2014年:公文式創設者:公文公の生誕100周年。

2015年:新社長:池上秀徳が就任

2015年:公文の新社長に池上秀徳(いけがみ ひでのり)が就任。

池上は長年に渡り、公文の教材開発を担当してきた生え抜きである。

【新社長:池上が掲げた3つの方針】

1.既存の教室事業の強化

2.これまでのノウハウの他分野への応用

3.自学自習をサポートするICTの開発

なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?』130ページ参考』

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